デザインとはなにか?アート(芸術)との違いについて検討する

デザインとは

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デザインってなに?

 

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なんだろう。会社のロゴとか建築とか、そういうイメージがある。

 

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デザインとアートの違いは?
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うーん・・。

デザインの辞書的な意味について

こういう言葉の定義で悩むときはコトバンクさんに頼るのが一番です。

 

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〈指示・表示する〉を意味するラテン語の〈デシグナレdesignare〉に由来する語。元来は計画,設計,意匠を意味したが,現在では日常の実用目的にそった造形活動一般をさす(出典、以下同じ出典)。

デザイン(design)はラテン語のdesignareに由来してるんですね。意匠(いしょう)という言葉がデザインの訳語として使われることがあります。「意匠」は一般には装飾や図案を意味しているそうです。「図案」とは形・色などの組み合わせのことです。「意匠」も「図案」もデザインの訳語として使われることがあります。

1711年フランスのリヨンで絹織物業界における他人の図案の模倣を禁止したらしいですが、これが意匠の保護制度の起源と言われています。企業にとってデザインは重要な資源というわけですね。日本でも「意匠法」という法律がありますし、「意匠権」という権利もあります。「意匠の保護及び利用を図ることにより、意匠の創作を奨励し、もつて産業の発達に寄与することを目的とする」と定めている(意匠法1条)。2019年からは物品ではないもの、アイコンの画像ようなものも保護されるようになったそうです。

 

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デザインの語源はデッサン(dessin)と同じく、“計画を記号に表す”という意味のラテン語designareである。

また、デザインとは具体的な問題を解き明かすために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現することと解される。

日本では図案・意匠などと訳されて、単に表面を飾り立てることによって美しくみせる装飾(デコレーション)と解されるような社会的風潮もあったが、最近では語源の意味が広く理解・認識されつつある。

形態に現れないものを対象にその計画、行動指針を探ることも呼ばれることがあり、企業広告などの就職に関するキャリアデザイン、生活デザイン等がこれにあたる。ただし、これは意味の転用でありデザイン本分を指すものではない(出典、以下、同じ出典)。

デッサン(dessin)もデザインと同じ語源であるdesignareからきてたんですね。「計画を記号に表す」という意味のほうが具体的でわかりやすいですね。「記号」というのも重要です。記号とは「情報伝達や思考・感情・芸術などの精神行為の働きを助ける媒体」のことです。ハートも記号のひとつですね。意味は愛だったり、単なる好意だったり、いいね!だったりするわけですが「♡」で表しているわけですね。

デザインとは単なる装飾なのか?

装飾(そうしょく、decoration)の意味は「事物を飾ること、装う音、またそれに用いるもの」らしいです。建物の内部を絵画や彫刻、敷物で全体的に飾ることをデコレーションというらしいです。特定の対象を飾ることを「オーナメント(ornament)ともいうらしい。

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被服の一部が機能性を失うことで装飾に変わったものがある一方、織物や陶磁器の場合のように、偶然もしくはやむをえず他の材質が混入して予期せぬ効果が現れたことに触発され、それ以後意図的に美的様式の形成が図られたものもある。このような例からも明らかなように、現在みることのできる種々の装飾が、機能性の喪失によるものか、あるいは創造的展開の結果であるかの区別も容易ではない。

コトバンクによれば、「装飾」とはそれ自体では独立できる存在ではなく、添え物的な存在らしいです。しかし添え物の域を超えた重要な意味をもつ場合もあるそうです。たとえば人間の化粧や服飾も「装飾」のひとつです。たしかに化粧がそれ自体では独立できず、人間とセットで意味をもつ場合が多いですね。

「添え物の域を超えた重要な意味」の例としては、化粧の「社会的な意味」などが挙げられるそうです。「すっぴんでも綺麗じゃないか」とある男性が女性に言ったことに対して、女性が「化粧はマナーなのよ」と反論している場面を見たことがあります。たしかに飾り立てるという見た目だけの問題ではなく、「社会的な意味」をもつ場合がありそうです。化粧をしている女性は「しっかりしている」という記号的な意味をもつような社会の場合、化粧は単なる添え物以上の意味を持ちえますね。その是非はおいておきます。

「機能性」というのも重要です。靴紐、袖のボタン、レース、リボン等々は昔は機能を持っていたが、いまは失っているという例が挙げられていました。鼻水を袖でふかないようにボタンを袖につけたという話を聞いたことがあります。今の時代はティッシュ等が容易に手に入る時代なので、ボタンを付ける”機能的な”意味はないのかもしれません。つまり機能的な意味をもってボタンはつけらていたが、今では機能性を失い、装飾としてボタンがつけられるようになったということです。

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装飾芸術decorative artということばは、広くは建築物の外部および内面を飾る彫刻(レリーフ)や絵画の類(フレスコ画、モザイク、ステンドグラスなど)をさすが、それより、室内に場所を占める敷物、壁掛け、家具、調度品、食器をはじめ、人体に着ける装身具のような「飾りのための美術」をさし、これはほぼ工芸と同じと考えても誤りではない。しかし、装飾ないし装飾芸術を、建築、絵画、彫刻などと並んで造形芸術(美術)の一つのジャンルとして位置づけるには、概念のあいまいさがあり、他と明確に区別しにくい。

「装飾芸術」という言葉もあるそうです。「装飾は、それがあることによって、対象自体の特徴を強調する作用、形式美を与える作用がある」らしいです。

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一般には物品、建築物、身体等を装い飾ること、またそれに用いる飾り。特にそれ自体が機能を持たず、視覚的美感に訴えるものをいう(出典)

WIKIには「日本では図案・意匠などと訳されて、単に表面を飾り立てることによって美しくみせる装飾(デコレーション)と解されるような社会的風潮もあったが、最近では語源の意味が広く理解・認識されつつある。 」とあったように、デザイン=装飾だと理解されるケースが多かったそうです。

ここでいう「語源の意味」とは「計画を記号に表す(designare)」です。「計画」という意味が重要になってきます。語源に即したデザインの意味とは「具体的な問題を解き明かすために思考・概念の組み立てを行い、それを様々な媒体に応じて表現すること」ということになります。「美しく見せること」を装飾が一般的な目的だと仮定すると、「美しく見せないこと」も「具体的な問題」にはありうるわけです。「具体的な問題」というのはおそろしく多岐にわたります。「速く走るため」、「速く飛ぶため」、「お金を稼ぐため」、「目立つため」、「美味しそうに見せるため」、「使いやすくするため」・・・等々無限に列挙することができます。そしてこうした「具体的な問題」を解決するためために計画(設計)し、表現することがデザインというわけです。

これらの説明に依拠するとすれば、デザインは単なる装飾以上のものとなります。

セントラルパーク。マンハッタン。米国で最初のランドスケープ都市公園 出典

ランドスケープデザイナーのカールスタイニッツの「デザインとは,現状を少しでも望ましいものに変えようとするための一連の行為である。」という言葉もありましたねたしか。ランドスケープデザインとは自然と文化を組み合わせるやつです。

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アメリカン・ヘリテージ・ディクショナリーは、デザインを、「心を想い、創造する、発明する」、「計画を立てる」と定義し、エンジニアリングを次のように定義している。「科学的および数学的原則を設計、製造、効率的で経済的な構造、機械、プロセス、システムの運用が含まれる」。どちらも、問題解決の形式であり、「科学的および数学的原則」の適用という明確な区別がある。しかし、実際に工学の焦点がますます科学的になってきたことで、新しい「人間中心の」設計分野の重要性が高まっている(出典)。

この定義も面白いですね。

 

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英語では次のようにより正式な定型が示されている。(名詞)制約に従って一連の要件を満たす原始的な〔大きな構造の〕構成要素設定がなされ、特定の環境で目標を達成することを目的としたエージェントによって明示されたオブジェクトの仕様。

デザインの定型でもう一つは誰かにユニークな期待をし達成するためのロードマップまたは戦略的アプローチであり、その目的を達成するための法的、政治的、社会的、環境的、安全上および経済上の制約の中での、仕様、計画、パラメータ、コスト、活動、プロセスである。[2] ここで「仕様」は計画または完成品のいずれかとして明示することができ、「プリミティブ」は設計オブジェクトを構成する要素である。

そのような広い意味で、すべての分野のデザイナーのための普遍的な言語や統一見解は存在しない。このことは、主題に向け異にする哲学と多岐に渡るアプローチを可能にする

 

カタカナ英語が続くとモヤッとしますよねわかります。何を言っているかサッパリわからないような衒学的な文章はどうにかしてほしい。これも私の不学故にしょうがないのかもしれない。「エージェント」は代理人という訳と、状況に応じて利用者の意図に沿った一連の作業を自動的に行うコンピューターシステムという訳がありますが、前者でしょうか。それとも「動作の主体」という意味でしょうか。

たとえば「使いやすいマウス」をデザインするとします。この場合、ある会社の開発担当の人間が「代理人」にあたりますよね。つまりマウスをデザインする「主体」というわけです。制約とはこの会社での「予算」や「期間」、及び材料の仕入れ等々の問題が挙げられます。そうした制約において目標(使いやすいマウスを作る)を達成するために開発者が頑張るわけです。

オブジェクトは物、対象、目標、客体など多義的な意味をもつ言葉です。おそらくここでいうところの「物」だと思います。つまりマウスなわけです。オブジェクトの仕様とはマウスの仕様のことであり、この文脈でいうと「使いやすいマウスの仕様」ということになります。たとえばトラックボールだけで動かせれば無駄な動きを省略できて使いやすいのではないか?という構成要素設定がされるかもしれません。

「具体的な問題」を解決するためために計画(設計)し、表現することがデザインというわけです。

デザインと機能の関係とグロピウスについて「造形は機能に従うものである」

ヴァルター・グロピウス 出典

ヴァルター・アードルフ・ゲオルク・グローピウス(Walter Adolph Georg Gropius, 1883年5月18日 – 1969年7月5日):モダニズムを代表するドイツの建築家。 近代建築の四大巨匠(ル・コルビュジエ、フランク・ロイド・ライト、ミース・ファン・デル・ローエと共に)の一人とされる。世界的に知られた教育機関(学校)である「バウハウス」の創立者であり、1919年から1928年まで初代校長を務めた。

出典 デッサウのバウハウス

バウハウスはたしかに聞いたことがあります。スレでも話題になっていましたね。

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グロピウスは著書『国際建築』(1925年)で、造形は機能に従うものであり、国を超えて、世界的に統一された様式をもたらすと主張した。1926年の「バウハウス校舎」は、まさにその実例となることを意図して設計された。1932年にフィリップ・ジョンソンの企画によりニューヨーク近代美術館でインターナショナル・スタイル(国際様式)の展覧会を企画し、建築界の主流になっていった(出典)。

造形は機能に従うものである」という箇所がポイントですね。ちなみにモダニズムとは近代のことです。

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は近代建築(きんだいけんちく)は、機能的、合理的な造形理念に基づく建築である。産業革命以降の工業化社会を背景として19世紀末から新しい建築を求めるさまざまな試行錯誤が各国で行われ、1920年代に機能主義、合理主義の建築として成立した。19世紀以前の様式建築(歴史的な意匠)を否定し、工業生産による材料(鉄・コンクリート、ガラス)を用いて、それらの材料に特有の構造、表現をもつ(出典)

機能主義だの合理主義だの、不学のわたしにはわかりにくい言葉が並び立てられていますので一度整理しましょう。

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建築設計に当たって機能性を最優先させる立場の総称。その視野は建造物の構造ばかりでなくデザインにも及ぶ。建築設計に当たって機能性を最優先させる立場の総称。その視野は建造物の構造ばかりでなくデザインにも及ぶ。19世紀末、最初期の摩天楼の設計者として知られるアメリカの建築家ルイス・サリバンがアール・ヌーボーの装飾的な様式から脱したシンプルで無機質な建築を目指して「形態は機能に従う」と述べたのが起源とされる(出典)

「近代以前の建築は、形態を作る時に様式を根拠にしていた。当時の自動車が馬車を模倣したように「歴史」に従っていた。サリヴァンは方程式を解いていくと、結果的に美しいものができると説いた(出典)」とWIKIにはありました。

「様式」とはなにか?と芋づる式に不学が露呈してしまっていますが、ご了承ください。

特に、芸術の分野で精神的・内面的な特性を形象に表わす個性的な方式または類型のこと。ゴシック・バロックなどの時代様式、フランス・ドイツなどの民族様式、歴史文芸と風俗文芸、静物画と風景画などのジャンルの様式、崇高と悲壮などの美的様式、さらに芸術家個人におけるアポロン型とディオニソス型などのさまざまな区別がある。スタイル(出典)。

とまあ、説明されてもよくわからないから困ったものです。

ヴィクトール・オルタ「タッセル邸」。ブリュッセル、1893年 出典

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19世紀末から20世紀初頭にかけてヨーロッパを中心に開花した国際的な美術運動。「新しい芸術」を意味する。花や植物などの有機的なモチーフや自由曲線の組み合わせによる従来の様式に囚われない装飾性や、鉄やガラスといった当時の新素材の利用などが特徴。分野としては建築、工芸品、グラフィックデザインなど多岐にわたった。第一次世界大戦を境に、装飾を否定する低コストなモダンデザインが普及するようになると、アール・デコへの移行が起き、アール・ヌーヴォーは世紀末の退廃的なデザインだとして美術史上もほとんど顧みられなくなった。(出典)。

ちなみにこれはアールヌーボー様式の建築です。

アール・デコ建築のクライスラー・ビルディング 出典

アール・デコ様式は「幾何学図形をモチーフにした記号的表現や、原色による対比表現などの特徴を持つ」らしいです。アールヌーボー様式とアールデコ様式の違いは、有機的な装飾か、無機的な装飾かの違いというわけですね。「形態は機能に従う」とはいずれも違うわけです。装飾から形態や機能に重点がいくようになると、アールデコ様式も流行らなくなったそうです。

たとえば「ゴシック様式」という言葉を聞いたことがあると思います。「12〜15世紀のヨーロッパで栄えた,高い尖塔をもつ垂直線を強調した建築様式。広義にはゴシック風の美術全般」をさすらしいです。垂直線を強調したスタイルといえばいいのでしょうか。あるいはパターンかもしれません。あの有名なノートルダムもゴシック様式なんですね。

様式を英語にするとstyleになるそうです。型、体裁、形式等々の訳があります。ここまでくればなんとなく様式というものがわかってきました。パターンみたいなものなんですね。特定の時代に多くつくられた建築様式があるという言い方をすれば、これは時代様式になります。ある民族では同じようなパターンの建築が見られる、という言い方をすれば民族様式になります。という感じでいいのでしょうか。一般には「芸術的表現の方式」をさすようです。「方式」とは「形式」のことであり、つまりstyleというわけですね。

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一般に 1800年以後,第2次世界大戦前後頃までの建築をさす (→現代建築 ) 。 18世紀末から 19世紀なかばまで,ヨーロッパ建築は古典主義,ロマン主義,折衷主義と過去の建築様式の模倣を繰返していたが,19世紀の工業の発達は鉄橋,駅,工場などの新しいテーマを生み,鉄骨やガラス,鉄筋コンクリートなどの新材料による新構造方式を発展させ,新しい芸術様式を求めたアール・ヌーボー,J.オルブリヒらのゼツェッシオン運動,L.サリバンらのシカゴ派などが,近代建築の出発点を形成した。しかし,近代建築が機能的デザインを確立するうえで重要な働きをしたのは,J.アウト,ミース・ファン・デル・ローエを中心とするオランダの「デ・ステイル」,グロピウスを中心とするドイツの「バウハウス」,ル・コルビュジエを中心とするフランスの「ピュリスム (→純粋主義 ) 」などである。 (→機能主義建築 )  出典

「近代以前の建築は、形態を作る時に様式を根拠にしていた。当時の自動車が馬車を模倣したように「歴史」に従っていた。サリヴァンは方程式を解いていくと、結果的に美しいものができると説いた」という言葉の理解に戻ります。「形態を作るときに様式を根拠にしてた」という文脈で語られるのは、その次に「歴史」という言葉が来るように、やはり「時代様式」ということなのでしょうか。ある時代ではゴシック様式が存在しているから、とりあえずゴシック様式にしておこうといった感じでしょうか。今まで確立されたパターンとして様式を捉え、それを模倣するという意味でしょうかね。

そうした「様式」から「機能」に変わってきたということが需要だと思います。たとえば「歴史的に良いとされていたからそれを模倣して良い」とするのではないということです。機能として優れていなければいけないというわけですね。「形式(様式)は歴史に従う」から、「形式(様式)は機能に従う」への変化とでも言えるのでしょうかね。

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すなわち、用途に徹し、機能的に無駄のないデザインを最良のものとし、単なる造形的遊戯はいっさい排していこうとする考え方である(出典)。

これはズバリの説明がでてきました。こうした概念に従えば、ゴシック様式は「無駄のあるデザイン」”かも”しれません。しかし機能とは多義的なものです。一般的な機能の意味は「物のはたらき。作用」です。たとえば家にはどういった機能があるでしょうか。「住むことができる」という機能があります。それだけでしょうか。「社会的な地位の高さを示す」という機能もあるかもしれません。楳図かずおの特徴のある家のように、「個性を示す」という機能があるかもしれません。ゴシック様式の建築物が無駄のあるデザインかどうかは、やはり建築の「目的」次第、「目的と機能が合致しているか」ということ次第になってくるのではないでしょうか。

 

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③ 近代建築理論の一つ。建築、工芸の形態は、もっぱらその目的と機能に従って設計されなければならないという主張。

2 建築・工業などで、余分な装飾を排し、用途に応じたむだのない形態・構造を追求する傾向。出典

 

とはいえ、一般的な家の機能とはやはり「住むこと」にあるのかもしれません。そのためには余計な装飾はいらないという考え方になり、コンクリートの家などが近代建築として作られていったということでしょうか。

「形態は機能に従う」、「形式は機能に従う」とそれぞれ「機能」が重視されていることがわかります。

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中西部の人たちは過去の建築様式にそれほど捉われなかった。鉄の大梁のフレームワークを組み合わせることで、建築家たちはすぐさま高くほっそりしたそしていささか微妙な鉄による骨格を造りだしたのだった。それ以外の要素、壁、床、天井、建具は、荷重を支えている鉄骨に吊られる。いわゆる「柱・フレーム」構法と呼ばれるこの新しい建設方法は、しかしそれ以上のことをなした。この構法は単に建物を高くすることを可能としただけでなく、より多くの開口を可能として室内を明るくし、さらに間仕切壁を薄くして床面積を増やしたからである(出典)。

これはサリヴァンの建築についての説明です。過去の建築様式にとらわれずに、どうしたらよりよい建物、よい機能をもつ建物をデザインすることできるか?と考えたんでしょうね。見かけ(装飾)ではなく、機能(床面積の多さなど)を重視し、そうした機能をもつためにはどういう形式、形態をすればいいのか?と考えたということですね。

「サリヴァンは方程式を解いていくと、結果的に美しいものができる」とWIKIにはありました。しかし機能にとらわれすぎると、美は逆に離れていくかもしれない、と思うことはありませんか?

「続く『形の合成に関するノート(翌六三年刊行)』では、建築デザインに対するまったく直感的なアプローチが、工業化・都市化・社会情勢の変化が進むなかで、もはやその複雑性に応えることはできないと主張した。建築家はおぼろげながらこの問題に気づきはじめていたのだが、それをとり上げ、詳細にわたって説明したものはいなかったのである。第二次世界大戦後、都市はコンクリート・鉄・ガラスの箱によって埋められていった。近代デザインが無能であることは、環境の質が非人間化するなかで、ぼんやりと認められるだけだった。しかしアレグザンダーは、その問題の根源がデザイン行為それ自体にあると主張した。すなわち、問題に対して正しい解決策が講じられていないというものであった。デザイン活動を合理的に理解しようとした彼の最初の試みは、建築のパラダイムに突破口を与えたと言っても過言ではなかった(「クリストファー・アレグザンダー」、スティーブン・グラボー、工作舎、15P)。」

 

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デザインが近代的な生産方式と結び付くとき、近代デザインの名のもとにある一つの方向が樹立された時代があった。そこでは、用途に適したもの、合法則的なものが第一義に置かれ、効用的な形式こそが美しいという機能主義美学が生まれた。近代デザインを主導したグロピウスが1925年に『国際建築』を著し、個人や民族を包括したインターナショナルな様式の設定を説いたのも同じ機運にのっとったものである。機能主義や国際主義がデザインの有力な基点であることは疑いを入れぬところだが、一方では単一化や形式化への危険もはらんでいて、その後、個別的な表現の見直し、歴史や伝統の再検討などによって、いっそうの充実が図られることになった。近代デザインが絶縁した装飾の問題がふたたび浮上し、現象的にはアール・ヌーボーやアール・デコの流行をみるようになったのもこの路線上で考えられる。なお、近年台頭したポスト・モダニズムの風潮は、近代デザインの総点検をもくろむものである(出典)。

「美」の問題が絡んでくるとデザインというのもは少しややこしくなります。「効用的な形式こそが美しいという機能主義美学」というのがポイントですね。効用的とは「使いみち」であると解釈するなら、「役に立つ」と解釈することもできます。「使いみちがないなら捨ててしまえ」というフレーズを聞いたことがあると思います。「よく切れないが、装飾が素晴らしいハサミ」は機能主義美学的に言えば「効用的ではないから美しくない」のかもしれません。なにをもって効用的とするかは多岐にわたる問題なので突っ込んだことが言えませんが、極端に言えばそうなります。アールヌーボー様式の装飾の反動として解釈するなら、やはりハサミの装飾は無駄であり、よく切れるような形状のほうが美しいわけです。右利きでも左利きでもよく切れるような形状のハサミは、効用的で美しいということになりますし、床面積を多く獲得できるような建築方法は効用的で美しいということになります。

スレでは「ある機能を最大限に活かすような形がいいデザイン」という話がありました。

「例えば、ただひたすら速く飛ぶという機能を追い求めていくと必然的に戦闘機みたいな形になるみたいな
自然本来の形を美しいと思うのも、それが長い年月をかけてある機能を達成させるための最適な形に進化してきたからなんじゃないかと思う
だからこそある機能についての最高のデザインって存在すると思うし、それを追い求めていく過程にデザイナー個人の思想なんて介在すべきではないと思う
ただ現実的には外部環境の変化や科学技術の変化によって最高のデザインも変わってくるんだろうけど」

というくだりは、機能主義美学的な発想ですよね。わかりやすい。

デザインの変遷

 

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もともとデザインの多極化は、高度大衆消費社会、あるいは情報時代の到来とともに著しくなった。ここではデザインが企業活動に組み込まれ、販売促進のための有力な手段とみなされることになった。すなわち、製品そのものよりもそのイメージをデザインすることが重要になり、広告や宣伝のための商業デザイン(コマーシャル・デザイン)という分野が確立された。他者への伝達のデザインがこれである。ただし、伝達のデザインは広告や宣伝に仕えることには限定されず、公共的な目的のため、あるいは環境形成に一役を担って、大きくその意義は広がった。こうして近年、商業デザインという呼称は広く印刷技術を媒介にした意味でのグラフィック・デザインという用語に変わり、さらに広範囲に視覚にかかわるすべてを含んだビジュアル・デザインの呼称が採用されるようになった。

今日のデザイン領域では、生産面でのインダストリアル・デザイン、プロダクト・デザインに加えて、視覚伝達のためのこれらのデザイン、また環境デザインが大きな場を占めている(出典)

 

機能主義的なデザインが近代的なデザインだという話は前の項目でしました。工業時代から情報時代へ変化するにつれて「商業デザイン」という分野が確立されたそうです。たとえばハサミは商品そのものですよね。よく切れるハサミというのは機能主義的に言えば形態が機能に従っていて、美しく、良いデザインです。こういうデザインはインダストリアルデザインやプロダクトデザインいうそうです。インダストリアルデザインとは「 工業的な生産手段によって大量に生産される製品(工業製品)を人間にもっともよく適合するように計画し、デザインする創造的活動をいう(出典)」らしいです。

商業デザイン(コマーシャルデザイン、グラフィックデザイン、ビジュアルデザイン)では「イメージ」が重要視されるそうです。看板、広告、展示、包装などさまざまな形態があるそうです。

デザインとは具体的な問題に対する解決であり、「商品の販売を促進すること」が具体的な問題となったわけですね。テレビが作られ、インターネットが構築されると広告業界も発達していきます。どのような広告のデザインが販売を促進させるか?と考えるわけです。たしかにポスターやチラシ作りをしている人のイメージもありますね。デザイン系の学校ではそうしたポスターやチラシ作りを実習として行うのではないでしょうか。

時代によってデザインの形態は変わっても、やはり「具体的な問題に対する解決」や「計画を記号にする」という根本的な概念からは大きく逸れていないといえます。

デザインとアートの違いとは

“よく云うけど、
デザインは「解決」、
アートは「問題提起」。

その「解決」に対して>>1は先輩に「どうとでも捉えてください」と云うのは相手に問題を投げかけていることになる。
それじゃダメなんだ。
ロゴマークは言わば象徴とされるものではなければいけないし、そうであるための意味もなくてはならない。
それからお前のデザインは自己満足そのものでしかない。クライアントが望んだものが万人に受けるとは限らない。
デザインはなんでも好き勝手にやっていい自己主体ではない。

逆にアートであれば、疑問や何らかの感情を多くの人に植え付けられる事ができたら成功だ。こちらは自己主体で凡ゆるものが創造できるけれど。

このふたつの違いも分からずにやってるならデザイナーやめろ。
あくまでデザインにアートが混入する時はアートを解決に利用する時だけだ。”

>>1がどの分野のデザインを指しているかはわかりませんが、
デザインの根本は、「必要は発明の母」というように「発明」と「必要」に伴って生じた「解決」の手立てだと思います。

そこで、いいデザインとは、そのものの魅力を引き出し万人を自然と惹きつける力をもったものだと考えます。

この問題ですね。今までの文脈でいえば、デザインの定義とは「具体的な問題を解決するためために計画(設計)し、表現すること」でした。スレでいうところの「問題解決」と一致しますね。企業に、左利きでも右利きでも切れるようにデザインしてくれと言われたら、その具体的な問題を解決するために設計(デザイン)する必要があります。そうした意味では「制約」がありますね。

それに対して、アートは「制約」がないように思えます。自分の好きなふうに描いていいからです。といいましたが、そうでしょうか?アートは依頼主から「こういう絵を描いてほしい」と具体的に言われたら、それにしたがって絵を描く必要があります。その場合にはある程度の「制約」がありますし「具体的な問題」もあります。もちろん芸術家の中には自分で好きなふうに絵を描いて、気に入ったなら買ってくれという形式のひともいるかもしれません。しかしそういう人ばかりではないはずです。

たとえば漫画家はどうでしょうか。自分の好きなふうに、なんの制約もなしに描いているでしょうか。出版社も「漫画が売れる」必要があり、ある程度は「お金を稼ぐ」ということを目的にして成り立っています。したがって、漫画の内容も「売れる内容」でなければいけないわけです。芸術家の誰もが自己満足で制約もなしに問題提起”だけ”をしているわけではありませんよね。

こういう話は概念遊戯になりがちで、あまり意味を成さないように思えてきました(問題はいつだって0か100かではなくグレーなのです)。こういうものは相対的に判断するべきです。たしかに純粋なアートは純粋なデザインよりも「問題提起」を重視しているかもしれません。そのことは認めます。よく切れるハサミという具体的な問題が芸術家にはあまりないように思えます。つまり、「抽象的な問題」が多いように思います。

たとえば「美しい人間を描きたい」、「ワクワクする物語を書きたい」、「自分の個性を表現したい」といったように具体性を欠いています。これだ!これが解決策だ!というものがなく、永遠に美とは何か?にむかって不定前進していくようなものです。すくなくともそうした傾向がアートにはあるように思います。相対的な問題としては、アートはデザインよりも抽象的です。

デザインとアートの境目はたしかにぼやけていますが「解決」と「問題提起」、「具体」と「抽象」はなかなかいい区別だと思います。デザインがアート的である場合は、後で述べるような「応用芸術」としてのデザインという分類になることがあるそうです。アートがデザインな場合は?と頭が痛くなりそうです。芸術において「具体的な問題解決」が主たる目的となるケースを考えてみればいいのではないでしょうか。たとえばマクドナルドのポスターは明らかに「販売を促進」させることが具体的な目的となります。画家の絵がこのような「具体的な目的解決」の場合になることはあるでしょうか。たとえばCMでかわいいキャラクターが採用されるとします。このキャラクターはCMに関心を寄せるような目的としてデザインされている場合を考えてください。”芸術家”にこのような依頼がきた場合を考えてください。ゴッホが、よしこれが私の思うかわいいキャラクターだとスポンサーさんに絵をわたしたとします。

スポンサーさんの反応が「え、これはあなたの思う可愛さであって、一般的に受けるような可愛さではないし、こんな絵ではCMを流せない」と思ったとします。しかしゴッホは、「これこそ芸術的であり、アートだ。これは素晴らしいイラストなんだ。わたしの思うかわいさ」と反論したとします。スポンサーは「これは私たちの問題解決にはならないので採用しません」となるでしょう。この絵はデザインとしては失敗であり、アートとしては成功しているのかもしれません。あるいは頼んだスポンサーが失敗なのかもしれませんが。

しかし、偶然にもスポンサーがゴッホのかわいいイラストを「これは私たちの問題解決になる」と思った場合はどうでしょうか。これはデザインなのでしょうか、アートなのでしょうか。ゴッホの意図によるのでしょうか。それとも結果によるのでしょうか。ゴッホが「問題解決を意図して作成して受け入れられたケース」はデザインですか。「問題解決を意図せずに作成したが、受けいれられなかった」はアートですか。「問題解決を意図せずに作成したが、受け入れられた」場合はどうなるんでしょうが。アートがたまたま問題解決につながったので、”スポンサー側”からすれば良いデザインであり、ゴッホ側からすれば良いアートということになりませんか?それともスポンサー側からしても良いアートなのでしょうか。

つまり意図を大事にするか、結果を大事にするかという問題です。意図して作られていなければ、つまり目的に対しての解決策として計画して作られていなければそれはいかなる場合もデザインとは言えないという定義でいいのでしょうか。であるとすれば、スポンサーの目的に対して作ったわけではないので、ゴッホの絵はアートであり、スポンサーにとっても必要としているアートです。

物をつくる主体の意図によって最終的にアートかデザインかは分かれるということです。機能としてははアート的である場合もデザイン的である場合もありうるということです。具体的な問題などは気にせずに、自分の感性によって作るアートが他者から見ると「良いデザイン」に見える場合も、「良いアート」に見える場合もあるのです。物自体に意図なんて読めませんよね。本人がどういう目的で作ったのか話さなければわからないのです。

たとえば左右両方の手で切れるハサミをアートとして作った人がいると仮定してください。左右両方の手で切れるように、利便性ために作ったのでは”なく”、単純にそのほうが美しいと感じたからハサミを作ったとします。”結果的”には他の人にとって”便利なデザイン”に見えたとしても、本人からすれば「そんなものは意図していない」のだから、これはアートなのです。意図にこだわればこれはデザインではなくアートなのです。とはいったものの、やはり純粋なアートが純粋なデザインとして使えるというケースが少ないのは事実だとは思います。やはり目的に即して計画的につくられたもの、すなわちデザインのほうが適している場合が多いでしょう。しかし両者は決して相反するものではないと思います。

駄文が続きそうなので概念遊戯はこのくらいにしておきます。

デザインと応用芸術について

「デザインにアートが混入する時はアートを解決に利用する時だけ」というのも面白いですね。この問題は「応用芸術(応用美術)」と言われる言葉の問題ですね。

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応用美術とは美術を日用品や行事などへ応用することを指し、この過程をデザインという。ファインアートが見るものに知的興奮や理論的な感覚を与えるのに対し、応用美術ではデザインを組み入れた、例えばコップ、雑誌、装飾的な公園のベンチなど実用本位の物体への創作的発想である。装飾美術との間にかなりの重複があるものの、それらは別個の概念とされる(出典)。

亀の形をコップに応用したものが応用芸術の例だそうです。たしかに機能的には亀はあまりいらないような気がします。つまり「飲む」という機能において亀はあまり意味をもっていないような気がします。

インダストリアルデザイン、グラフィックデザイン、ファッションデザイン、インテリアデザイン、装飾美術、実用美術などの分野は応用美術と考えられているらしいです。先程出たアールヌーボー様式やアールデコ様式も応用芸術のひとつなんでしょうね。

 

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今日、デザインという用語は、レイモンド・ローウィが始めた応用芸術と、20世紀ドイツのバウハウスとウルム・スクール・オブ・デザイン[15]の教えと広く関連している。

アートとデザインの境界は「アート」という用語と「デザイン」という用語の両方の用途のために、ぼやけている。応用芸術は、工業デザイン、グラフィックデザイン、ファッションデザインなどの分野を定義する包括的用語として使用されてきた。「装飾芸術」という用語は、歴史的な談話で使用される伝統的な用語であり、適用芸術である。グラフィックアート(写真からイラストまで平面イメージ作成)では、作品が制作されている状況とそれがどのように取引されているかに基づいて、美術と商業の区別が行われることがよくある。

ある程度、直感を採用するなど、仕事を創造するためのいくつかの方法は、 応用芸術と美術の分野で共通している。マーク・ジェットレイン[16]は、デザインの原則は「本能的」「組み込み」「自然」「正しさ」の一部であることを示している。しかしながら、結果として得られる作品の意図される用途および文脈は大きく変わる(出典)。

これによれば、アートとデザインの境界はぼやけているそうです。デザインの定義だけでも多岐にわたるのに、アートの定義は頭が痛くなりそうです。

デザインと創造性

 

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デザインと生産は、多くの創造的な職業で絡み合っている。つまり、問題解決は実行の一部とその逆である。再編成のコストが増加するにつれて、デザインから生産への分離の必要性も増大する。たとえば、超高層ビルなどの予算の高いプロジェクトでは(制作)建設からアーキテクチャを分離(デザイン)する必要がある。ローカルに印刷されたオフィスパーティー招待状のような低予算のプロジェクトは、数枚の紙、数滴のインク、1時間未満のデスクトップの低コストで数十回印刷して印刷することができる。

これは、生産が決して問題解決や創造性を伴うものではなく、デザインが常に創造性を伴うものではないということではない。デザインは完璧なことはまれであり、時には反復的である。デザインの不完全さは、デザインプロセスで見過ごされたものを補うために、創造性や問題解決スキルを活用して制作職(たとえば制作者、建設労働者 )に任せることができる。 同様にデザインは、既存の既存ソリューションの単純な繰り返し(コピー)であり、デザイン者からの創造性または問題解決のスキルを最小限に抑えることができる(出典)。

 

最後に創造性について少し触れて終わりにします。それにしても「ないということではない」という文章が個人的に苦手です。「生産が決して問題解決や創造性を伴うものではなく、デザインが常に創造性を伴うものではないということではない。」という文章が一瞬で頭に入ってきた人は、頭の回転が速いですね。私は遅いです。そして言いたいこともあまりよくわからない。シンプルではない文章は機能的に美しくない!とぼやきたくなるところです。

「同様にデザインは、既存の既存ソリューションの単純な繰り返し(コピー)であり、デザイン者からの創造性または問題解決のスキルを最小限に抑えることができる」という箇所が個人的になるほどなと思いました。というよりほとんどの分野で同じようなことが言えると思います。一見創造性があると思われる行為というのは、「既存の解決方法繰り返し」であることが多いです。本人が気づいていないだけで、反復しているのです。アートやデザインの不完全性も同じです。既存の解決方法をたくさん借りて、自分のオリジナルと思えるようなものをほんの少し継ぎ足すくらいのことでいいのではないかと思います。もちろんガリレオの地動説のように、従来の解決方法とは真逆の方法、接ぎ木を足すのではなく根本から変えるような解決方法もあります。しかしアートやデザインにおいてそこまでの根本的な創造性というのは「奇抜」や「自己満足」に終わってしまうことが多いのではないでしょうか。

たとえば「商業デザイン」を考えてみましょう。美味しそうな色は赤色等々、ある程度解決方法というか、パターン的なものはいくつも構築されています。かわいい人間とはどんなデザインか?目立つデザインとは?ということをパターン化してみると、やはり解決方法というのはある程度は決まっているわけです。微細には違うかもしれませんが(この点が最小限に抑えることのできた創造性であり評価されるべき点なのですが)、大概は反復的なのです。美についてもなんらかのパターンがあるのではないかとアレグザンダーも言っていました。

創造的に見えても大概が反復である!と偉そうにいいたいわけではありません。しかし「解決方法(ソリューション)」を先代たち、そして同世代の人たちが積み上げてきてくれているのだから、ぜひとも吸収しようじゃないかということが私は言いたいです。芸術家はほかの芸術に影響を受けることを拒む場合があります。影響を受けて、自分はほんとはオリジナルじゃないんじゃないか?自分の作品が似ていたらどうしよう?他の作品を見てしまうと、自分の作品でそうした題材を使えなくなってしまう恐れにどう対峙しよう?などと悩むこともあるのです。

しかし「創造的に見えても大概が反復である!」ということを頭に入れておけば、そうかならそうした解決方法をたくさん知ってやろう。どんどん取り入れて使って、組み合わせて、新しい視点で捉え直してやろう。いや、根本的に変えてしまおう。まるで逆の解釈をしてみよう。といったことができるやもしれません。「創造的に見えても大概が反復である!」という自虐的な発想が、かえって「創造」を生み出すこともあるのではないかということです。

「肌の塗り方にはこういうものがあるのか、なるほど学ぼう。取り入れよう。あれ、ここはこういうふうにしたほうがもっといいのでは?ここは自分の感性ではこう変えたほうが美しい」といったこともあると思います。

【感想】カメラ(トレース)と芸術と、デイヴィッド・ホックニー

以前、トレースの問題について扱ったことがありました。このテーマは主に「自然」の模倣でした。つまり自然の美を反復しているといえます。

【感想】選べ人生を!選べ芸術を!模倣と創造について

しかし人間の作品、つまり「人工」の中にもまた美があります。以前扱ったプラトンのイデアの問題です。自然はイデアを模倣しているから人間が美しいと感じるという話です。それなら、人工物に美しいと人間が感じる場合、それが単なる自然の模倣ではなく、イデアの美のなにかをときには自然以上に模倣しているからではないか?という推測もできるわけです。

であるとすれば、「人工」の反復でイデア的な美がなにかということを垣間見ることもできるかもしれないぞ、というわけです。だいぶ抽象的な話ですいません。要するに自然や他者の作品(人工物)の「模倣や反復」は”自分の問題解決”にとって重要な場合がありうるということです。であるとすれば、デザインの解決法(アイデア)の模倣や反復も重要になりますよね。

「自分の問題解決」というのが「信念」に関する問題なので多岐にわたります。要するに自分がデザインをする目的、アートをする目的、生きる目的などとつながっているからです。そうした目的のために創造があり、そのために模倣や反復があるということです。そうした信念に比べて模倣や反復が恥じだと思えばやめればいいだけの話です。しかし模倣や反復を通して学び、どうしても自分の問題解決につなげたいという「信念」があればどうしても通らなければならないという道だと思います。ざっくりいえば「自然や他者から学ぼう」という話です。プライドと信念がバチバチにやりやってプライドが勝ったなら、やめればいいだけの話です。

自分の言いたいことがあまりうまく言えないとモヤモヤしますね。なにも作品を丸パクリしろ!と言っているわけじゃないんです。他者の作品を模倣して反復して、美のパターンを見つけるんです。ああ、この作品とこの作品、同じ美のパターンがあるなと思うことがあるはずです。そうした美のパターンを方法論として自分の個人的な体験や感性を組み込んで、再構成するということです。そして、美のパターン、つまり解決方法(ソリューション)は多く持っていたほうがいいよねということです。社会学者が医学や科学といった分野の知識を自分の学問に応用するように、分野を横断してバターンを当てはめるみたいな面白さがあると思うんですよね。ルーマンのサイバネティックスとかもそうなんですよ。

美の問題だけではなく、「機能」の問題にも同じことがいえます。「よく切れる包丁のデザイン」があるとして、そのパターンを「よく切れるハサミ」としても使えぞ!といったような感じです。これはたとえが少し下手ですが、ソリューションを反復させることは創造性にもつながりうるとおもいます。これはアートでもデザインでも、アートを含んだデザインでも定義の問題に関わらず同じだと思います。

既存のものを模倣して反復してみたけどどうしても問題が解決できない、どうしよう、今までの解決方法は根本的に違うのではないか?と疑えることで新しいことが見えてくることもあるでしょう。デカルトがそうだったようにです。ちなみにデカルトは疑った結果、確信をおけるものがこの世から消えていってしまったようです(最終的には「我思う故に我あり」のように「考えている私はここにいる」が残りましたが)。

デカルトは「生まれてこのかた聞かされた理論の数々は、全部まとめて捨て去るのがもっとも建設的な生き方であると思えるばかりだ」とまでいったほどです。ロジャー・ベーコンも同じように「古いものの上に新しいものを加え、接ぎ木をすることによって、諸学における大きな進歩を期待しても無駄である。そうではなく、最も深い基礎から建て直しを行わなければならない。さもないと、進歩はすぐに頭打ちになるだろう。同じ円のなかで永遠の堂々めぐりを繰り返すほかなくなるだろう」とまでいいました。ちなみにベーコンは「自然を実験にかけてデータを積み上げる」方法を考えた人です。デカルト、ベーコン、ガリレオ、ニュートンといった彼らが科学革命の中心となり、パラダイムを変えたのです。

接ぎ木をするか、基礎から立て直すかどちらかをするにせよ、とりあえず木の状況を見ないとはじまりません。つまり解決方法を模倣なり反復なりして学ぶというわけです。そうした行為によって創造性が薄れるという人もいるかもしれません。しかし、自分がほんとうに創造性があることをしているのか?と怯えるよりはマシだと私は思います。

感想元のスレ

デザインとはなにか?良いデザインとは?アートとデザインの違いとは?

今回おすすめする書籍

クリストファー・アレグザンダー―建築の新しいパラダイムを求めて


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