【感想】選べ人生を!選べ芸術を!模倣と創造について

このまとめ記事の感想です

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感想

芸術はミメーシス(模倣)である

1880年から1950年までの間に、アカデミーでの訓練を受けた指導者は徐々にこの世を去り、アカデミーの規範に基づく伝統的な手法が教えれられることもなくなった。衰退が進んだこの記事は、芸術の主流が『自然を客観的に写し取る』ことから『現実世界に対する主観的な反応』、さらには『芸術そのものの抽象的な性質』へと移行していった時期と重なる。これは芸術論における大革命だった。芸術はミメーシス(自然の模倣)であるというアリストテレスの定義は、古代から西洋の思想および行動を支配してきた。芸術において『表現あるいは表情(compression)』は、1880年以前は『題材』すなわち描画対象の人物や物体から伝わる感情や意図を指し、アーティスト本人の感情を指すことはなかった。いわゆる『自己表現(self-expression)』は近年になった登場した概念だ。

シャルル・バルグの「ドローイングコース」BDI

選べ人生を!」トレインスポッティングのセリフを思い出します。

選べリアリズムを!選べ抽象主義を!選べ自己表現を!選べ個性を!選べ写実を!選べ芸術を!選べ信念を!

芸術は個々の選択から生じるものです。正解なんてありはしないのです。人生は選択の連続であり、芸術もまたしかりです。選べ芸術を!選べ神を!人はいつか死ぬ!

さてスレでは「模写」が話の中心となっていました。ここで重要なのは「何を」模写するかです。すこし難解なテーマに手を突っ込んでしまいましたが、後悔はしていません。

自然と人工物をまず2つにわけましょう。一般的なイメージで、人が描いた絵や作ったロボットを「自然」とは言わないでしょう。自然といえば空、海、森、動物、云々を想起するはずです。もちろんそこに人間も含まれます。動物を描いた絵は、自然を模写した絵だといえます。人間を見て描いた絵は自然を模写した絵だといえます。

さて自然を模写した絵をさらに模写した絵は自然を模写したことになるでしょうか。模写された絵自体は自然のものではなく、人工物です。

プラトンという古代の哲学者は、自然はイデア(本質)の模倣であると考えました。自然を人間が美しいと感じるのは、自然が美の本質の模倣だからだというわけです。果てしなく広がる海を美しいと感じることがあるはずです。プラトンによれば海それ自体が美しさの要因ではなく、本質的な美が思い起こされるからと考えたそうです(想起説)。自然それ自体に本質的な美は存在していないというわけです。つまり美は知覚されるのではなく、想起されるというわけです。難しい話ですね。

我々が一般にイメージする自然はもちろんのこと、人工物であっても我々は美しいと感じることがあります。漫画、アニメ、映画、街の景色、時計、車、あらゆる人工物に対してです。なぜ人は人工物を美しいと感じるのか。それは人工物がイデアを間接的に模倣しているからです。たとえばアニメのキャラクターを美しいと感じるとします。人間という自然を模倣して二次元に抽象化したものがアニメのキャラクターなはずです。つまり、自然の存在なしに、アニメのキャラクターという人工物は存在し得なかったはずです。自然すらイデアの模倣なので、模倣のさらに模倣というわけです。いずれにせよイデアにつながる模倣なので、美を感じるというわけです。

じゃあ美そのものとはなんだ?と問い詰めていってもなかなか答えを出すのは難しい。プラトンいわく理性によって近づけるそうです。カントは理性によってイデアにはたどり着けないと考えました。現代の哲学では、美そのものとか、世界そのものとか、神とかそういった「イデア」に理性を通してたどり着けないという結論を下しています。とはいえ古代の哲学者であるプラトンはイデアがあり、そこに近づけると考えていたようです。

自然はイデアの模倣であり、芸術は自然の模倣というわけです。イデア>自然>芸術と単純に序列をつけてはいけないと思いますが、そう考えると楽です。人間は自然に”ない”ものを考えることができます。鬼だとか、悪魔だとか、死神だとか、あるいは神だとか。それらが実在するかどうかは”信仰”の問題として片隅においておきます。実在を証明できないものは架空のものとして扱っても差し支えないでしょう。

いわば想像のイメージに基づくものが人工物の中にはたくさんあります。漫画などはその際たる例ではないでしょうか。しかし、我々はそういった自然を模倣したとは思えないような芸術を美しいと感じる。いや美しいと感じるということは、そうしたイメージにもどこか自然を模倣した箇所があるということかもしれない。

たとえば鬼は実在していないので、それを見て模写するということはできない。ということは自分の頭のなかで鬼を想像して描かなければならない。しかし無から有を人間は創り出すことができない。したがってなにか素材が必要になる。たとえば角だ。牛には角がある。羊には角がある。人間に動物の角をつけてみよう。色はどうする?危険な色は何があるだろう。人間は血を流すと死んでしまう。そうだ、肌の色は赤くしよう。雷は怖い。落ちてきたら死んでしまう。そうだ、雷を操れることにしよう。

たしかに自然の間接的な模倣が素材として人工物の中に息づいていることがわかる。自然を一切知らない状態で何かを創造できるだろうか。難しい。芸術は自然の模倣であるという考えは、あながち間違ってはいないのだと思う。

しかしどうだろう。人工物と自然物、どちらがより正確に「美そのもの」を模倣できているだろうか?人工物は模倣の模倣なので、美そのもから遠ざかっているようにもみえる。芸術作品はあの圧倒的な景色の美に勝るのか?。事実は小説より奇なりというが、自然は人工物(芸術)よりも美なりかもしれない。美そのもの(イデア)があると仮定したらの話だが、そういう解釈もできる。

自然を模倣したからといって、自然の美しさを超えることができるとは思えない。自然だってイデアを超えることができないからだ。

しかし、自然を”ただ”模倣するだけではなく、なんらかの創造によって、なんからの奇蹟の連続によって、なんらかの鬼才によって、なんらかの偶然、なんらかの選択によって自然よりイデアに近づくことがあるのでは?と信じてみるのも一興である。たしかにただ模倣しているだけでは自然の美にはかなわない。上手く描けたねすごい、才能がある!金銭的な価値がある!美しい!と思う人はいるだろう。しかし実物のほうが美しい場合が多いのではないだろうか。写真よりも、実物を見たほうが美しい。人間が苦労して忠実に模写したところで写真よりもその正確性を超えられるだろうか

しかし、写真よりも人間の絵のほうがたとえ正確に模写できていなくても美しいと思うことがある。なぜだろうか。それは美だろうか。能力についてすごい!と思うがそれは美の感覚とは違うものなのだろうか。こうした問題はアーティストが散々悩んだ問題であり、悩んだ挙げ句に模写なんて価値ねーんだと投げ出した人も多くいた。写実性ではなく、抽象性こそ重要だと考える人もいた。客観的な自然ではなく、自然に対して”自分が”どう思うかを重視する人もいた。実際に空は青色だが、自分にはピンクに見えたからピンクに描くという人もいただろう。

こうした芸術は自然の模写から離れていっているように見える。しかしイデアから離れていっているか?と思う人もいたはずだ。美というものは自然のように個体的ではなく、普遍的、抽象的なはずだと。だから個別的な自然の中から、抽象的・普遍的な美を取り出し、ひっ捕まえてキャンパスに収めてやろうと思う人も出てきたはずだ。写真なんかには捕らえられないような美の本質というものを捕らえてみせたぞというわけだ。

ここでもやはり選ばなければいけない。

選べ芸術を!選べ信念を!

美そのものがあると信じるか信じないか、これは信仰の問題であり、信念の問題である。自然を模写することで美を見いだせるかどうか、これも信念の問題だ。自然からイデアを見いだせると考えるのも信念の問題だ。美そのものなんてない!あるのは俺の、俺が感じた、俺だけの美だ!おまえらそれを同じように美しいと思うだろう?なあ?自然が美しいんじゃない、俺の考えたものが美しいんだと考えるのも信念の問題だ。

前提知識について

プラトンとアリストテレスについて軽く復習

哲学的な話はこの記事で語るには不学な私にとってあまりにも難解ですが、軽く触れておきます。専門家ではないので浅学的な説明が前後にあるとはおもいますがご容赦いただきたい。

プラトンという人は自然はイデア(事実の本質)の模倣であると考えたそうです。たとえば世の中にはさまざまな林檎があります。ふじりんご、つがる、王林・・・とたくさんの品種があります。さらにふじりんごの中でも、ひとつひとつ微妙に形や色が違います。これらはイデアではないそうです。ただの現象(仮像)です。いうならば影のようなものです。

りんごの本質というものがあり、それらを我々は目にすることができません(イデアは感覚界を超越している)。個別の林檎を我々は見ることはできますが、これこそりんごだ!というようなりんごを見ることは難しいです。美も同様に、個別に人々は美を感じますが、これこそが美だ!というようなものを見ることは難しです。個別と普遍の違いというわけですね。プラトンは感覚ではなく、理性によってイデアに近づけると考えていたそうです。

プラトンの弟子に、アリストテレスという人がいます。この人はイデアではなく、エイドス(形相)とヒュレー(質料)という考え方をしました。実はエイドスとイデアは細かく言えば違いますが、同じようなものです。

プラトンは目の前のりんごはただの仮像(個別のりんご)にすぎず、本質(普遍的なりんご)はそこにはないと考えていました。つまり仮像とイデアはセットではないのです。

プラトンのイデア論に対してアリストテレスは否定的でした。リンゴの中に、エイドスとヒュレーが同時に存在してると考えたのです。プラトンが個体と普遍を切り離して個別の上に普遍を置いて考えたのに対し、アリストテレスは普遍と個体は区別はされるが分離はできないと考えたそうです。

ややこしいですよね。机の例で考えてみましょう。机の材料は木材です。机を作るためにはなにかしらの設計図が必要です。アリストテレスにとって木材は質料(ヒュレー)であり、設計図は形相(エイドス)です。木材と設計図が合わさったときに机ができます。これが質料と形相がセットであるという考えです。リンゴはもともと種からできます。なにかしらの設計図、現代的に言えば遺伝情報でしょうか?が合わさり、我々のイメージするリンゴというものができます。

じゃあ種はなにからできている?とどんどんさかのぼっていくとなにがあるでしょうか。アリストテレスは「霊魂」があると考えました。これ以上は深入りしないでおきましょう。

参考:ミメーシス形相、「哲学(PHP研究所)」

美とはなにか

プラトンは自然をイデアの模倣であると考えました。リンゴ、人間、木、水、火、虫、動物、云々すべて「自然」です。それらはすべてイデアの模倣だそうです。イデアというのはプラトンにとって「普遍的なもの」でした。言い換えれば「本質」です。真、善、美、それぞれイデアがあります。

ある人がピカソの絵を美しいと考え、ある人がピカソの絵を美しくないと考えたとします。人々はこれを多様性と考えるでしょう。人の数だけ真が、善が、美があると考えている人もいるはずです。しかしプラトンによればそれらは個別の感覚事物であり、単一的な美は存在すると考えています。ただひとつの美です。美そのものです。もし人間がパーフェクトな理性を超能力によって付与された場合に、ああ、これこそ美だと満場一致で地球にいる全員が認識できるような美です。

自然はイデアの模倣であるとプラトンはいいました。なぜ我々が自然を見て美しいと感じるか?それは、自然自体が美しいからではなく、美のイデアを分有することによってそう感じると考えたそうです。これを分有説といいます。あるいは版型(はんがた、パラディグマ、お手本)として形成する版型説なんてものもあります。他にもイデアに対する知は魂にもともと与えられていて、忘却しているだけであり、模倣された自然を見ることでイデア(美そのものなど)を思い出すという考え方もあります。これを想起説といいます。

参考:イデア

おすすめ書籍


シャルル・バルグのドローイングコース 協力:ジャン=レオン・ジェローム

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