「美学」とはなにか?西洋的な美の推移について検討する

美の移りかわりについて

美学の登場

「美学」の歴史的なおさらいをしておきます。

可知的なもの(νοητα、noēta)、すなわち上位能力によって認識されるものは論理学の対象であり、可感的なもの(αισθητα、aisthēta)は感性の学(aesthetica)としての美学の対象である。

「詩に関する若干の事柄についての哲学的省察」

美学が出現したのは1750年頃です。ドイツのバウムガルテンという人の「Aesthetica」という著書が由来です。つまり、美の対象が「人間固有の感覚の世界」であり、人間の内在的な視点へと関心が移ってきた時代なのです。

美の関心を大別すれば、プラトン的な美、キリスト教神学的な美、近代的(バウムガルテン的)な美の3つになります。美の関心はプラトン的な美から、キリスト教神学的な美、近代的な美へと移り変わってきたということです。ニーチェが「神は死んだ」といったように、キリスト教が科学や哲学によって薄れていき、人間中心的なものへと移り変わったことが背景として考えられます。

さらに「現代的な美」を定義するなら、やはりそれは「個人主義」的な美です。自己表現、他者との違い、独自性、創造性、人間の尊厳等々が重視される時代です。「みんなちがってみんないい」価値観です。神が重視された時代では、人間の視点よりも神の視点が重視されたのです。つまり神に起源をもつものが美しいのです。人間に起源をもつものは軽視されていました。

プラトンの時代では美そのものがあるが、それを感覚的にとらえることはできないと考えていました。いわゆる「イデア」です。美そのものは見えないが、本質的な美、本質的な美(イデア)はあると考えられていました。プラトンは理性によって人間がイデアに近づけると考えていたようです。自然はイデアの模倣であるとプラトンはいいました。なぜ我々が自然を見て美しいと感じるか?それは、自然自体が美しいからではなく、美のイデアを分有することによってそう感じると考えたそうです。これを分有説といいます。あるいは版型(はんがた、パラディグマ、お手本)として形成する版型説なんてものもあります。他にもイデアに対する知は魂にもともと与えられていて、忘却しているだけであり、模倣された自然を見ることでイデア(美そのものなど)を思い出すという考え方もあります。これを想起説といいます。自然そのものは美の仮象にすぎませんが、自然を通して美を思いこすといったことがあるそうです。人間の感覚的なものや主観的なものは軽視されがちでした。

プラトンの時代にせよ、キリスト教神学の時代にせよ、美は超越的なものでした。神の国や、イデアの国は此の世で感覚的に捉えられないのです。しかし近代になると、此の世で感覚的に捉えられる、ある意味では「ありのまま」の美学が出現しました。「可感的なもの(αισθητα、aisthēta)は感性の学(aesthetica)としての美学の対象」という言葉の通りです。イデアにせよ神にせよ「可視的」ではありません。プラトンが理性によって美にたどり着けると考え、キリスト教徒が信仰によって美にたどり着けると考えたのに対し、近代では「感覚」によって美をとらえようとしたわけです。あるいは客観的な美が地上にあると考え、理性によって合理的にたどり着けると考える人も出てきます。デカルトに言わせれば数学的な美になるのかもしれません。

美の推移

古代~中世

・[古代〜中世]芸術は「ミクロコスモス」として考えられていた。人間の外にコスモス(宇宙)があった。自然的秩序、宗教的秩序。これらのコスモスを模倣していた。だれが芸術作品の作り手であろうとあまり関係がなかった出来上がった作品がコスモスを移したミクロコスモスになっているかが重要だった。17世紀まで続いてきた捉え方。つまり「模倣的な美」ですね。

真なるものに美が従属していた。真>美。真なるものがなにかを考える営みが哲学芸術は哲学よりも劣る営みだった。美は、真なるもののイラストレーション。大衆のために形や色を示してあげたに過ぎない。わかりやすく具体的なものへ真なるものを翻訳したものが美だった。感覚によって媒介される真へのアクセス。知性によってではない。哲学者には必要がなかった。現代で言うと科学よりも劣る営みとして芸術は位置づけられていた。

知的に認識されるもののほうが、感覚的に捉えられるものより優位だった。前者が神だとすれば、後者は人間。感覚で探るっているだけではない神。昆虫の触角のようなものが感覚。人間には限界がある。神に近い領域が知的な認識。それに劣るものが感覚でとらえられる認識。

プラトンにいわせればコスモスは「イデア」であり、人間の感覚は「ミクロコスモス」です。人間の感性は不完全であり、完全なものはイデアとして、人間の外に存在するわけです。

近代

[近代]人間の主体性に価値のあるものは依拠しているのではないか。美の意識の変容。主観の台頭。美学が1750年にはじめて登場。バウムガルテンが書いた。人間の感覚は卑しいものという価値付けだったのに、その感覚を学問の対象にした。主観的なものが上位に。神の持つ超越的な視点よりも、人間の内在的な視点に関心が高まる。客観的理性への挑戦としての美学。審美的人間の登場。人権宣言は自然権は自然そのものではなく、人間そのものに依拠している、人間の権利を認識したもの、感覚を卑しめない。

[近代における美]人間の主観性が美の根源。美しいか美しくないかは趣味判断。その判断は理性によるのか、感覚なのか。17~18世紀の趣味判断の対立

[古典主義の美学]デカルト。意識の哲学者。人間の主体性を確立。真>美の構造はまだ残される。フランス式庭園とイギリス式庭園。フランス式庭園は日本人にとって馴染みにくい。

・フランス式:人間が見出す自然の本来の秩序。雑草とかそういうものは表面的なもので、それを超えた秩序を”理性“によって発見しなければならない。この秩序を表現してるのはフランス式庭園。幾何学的に刈り込む。自然の中に美を発見する。真>美。理性中心。

ロワール渓谷・ヴィランドリー城の庭園

ロワール渓谷・ヴィランドリー城の庭園

出典

・イギリス式:散策して散歩していると泉や薔薇、丘がある。変わっていく。日本の庭園に似ている。より自然に近い。自然に対して優しい感じがする。自然を活かしながらコントロールする。なるべく自然そのもの。人間が見出す本来の秩序を見出すのではなく、自然の外形がそのまま表現されている。感情の美学。パスカル。経験主義。not合理主義。理性ではなく心、デリカシー。賛同しやすい。自然は現象的なもの。人工的なものではない。現象的な本物性。ロマンティックなもの。感覚的なものが自立性を獲得。美は計算出来ない、制御できない、発見するものではない、”感じる“もの。突き詰めれば美は個人的なものへ。趣味の問題だから共有できないのか?

ストウヘッド庭園 出典

■ フランスよりもイギリスのがロマンチック。感情を喚起する。フランスは主知主義、知性主義。

■ 主観だけの理性中心よりも数学モデル。2+2=4は動かしがたい。嫌だと思うがなんだろうか受け容れるしかない、真実として捉える。受け容れるしかない、数学モデル。数学的な趣味判断。個人が気に入ったかどうかなんてどうでもいい

■ 料理が旨いかまずいかモデル。個人に依拠する。料理的な趣味判断。相対主義、歴史主義、ナショナリズムに近づく。美が討論の対象になる。美しかったかどうかを語り合える。議論する以上は一致できる可能性もあるし、しない可能性もある。絶対的なものはない。

虹が出ると、感動する。分かち合える人がいるとより一層、感動する。わかりあえば分かち合うほど感動的になる。恋人は分かち合えない。神への信仰は分かち合いたくなる。美も同じ。美の共有性。

現代的な美

ウルトラ個人主義、相対的なもの。作品自体ではなく、作品が意味しているものに意味がある。現代美術は不毛なところへ迷い込んでいるのではないか。美術が個人主義的なものへ。趣味は争えない。蓼食う虫も好き好き。共有できる基準、感動はどこへ。

美は分かち合えるのか?

このことは比喩的にいえばこうである。もし君たちがこれこれの立場をとるべく決心すれば、君たちはその特定の神にのみ仕え、”他の神には侮辱を与える”ことになる。なぜなら、君たちが自己に忠実である限り、君たちは意味上必然的にこれこれの究極の”結果”に到達するからである。学問にとってこのことはすくなくとも原則上可能である。哲学上の各分科や、個別学科のなかでも本質上哲学的なもろもろの原理的研究は、みなこの仕事をめざしている。

・・・

もとより、ここに述べたような考えは、人生が、その真相において理解されているかぎり、かの神々のあいだの永遠の争いからなっているという根本の事実にもとづいている。比喩的でなくいえば、われわれの生活の究極の拠りどころとなりうるべき立場は、こんにちすべてたがいに調停しがたくまた解決しがたくあい争っているということ、したがってわれわれは、当然これらの立場のいずれかを選定すべく余儀なくされているということ、がそれである。

「職業としての学問」、マックス・ウェーバー、尾高邦雄訳、岩波文庫、 63-64P

ウェーバーなら美とはなにか?に対して、やはりそれは「神々の間の永遠の争い」と答えるのかもしれません。つまり、”人それぞれ”です。宗教的な美、形而上学的な美、形而下的な美、幾何学的な美、自然の美、等々それぞれの神(価値)が争っているだけです。わたしたちはそうした争いの中で、いずれかの立場を選ぶことになるのです。今の時代、絶対的な真理というものがもはや信じられなくなっている時代です。古代や近世よりも現代は神もイデアも信じられなくなっています。人の数だけ美があり、人と違うから良いという言説がこの日本では一般的です。個性はお金を生み、没個性はお金になりにくいです(似ていたらときには訴えられもします)。人と同じような絵を描いたら非難されることすらあります。芸術は役に立たないからといって軽視されることすらあるでしょう。「何を」描いたかより、「誰が」描いたかも重視される時代です。

そうした世界においてはとくに「趣味のカリスマ」の世界になりがちかもしれません。ウェーバーいわく、「教養的・趣味的文化における障壁は、あらゆる身分的差別のうちでも、もっとも内面的で、かつ乗り越えがたいものがある」といいました。つまり、美的判断には友愛性と反している側面もあるのです。法や道徳については連帯しうる共通の基盤がありますが、芸術的世界においてはなかなか難しい場合があるのです。

たとえばモダンアートを美しいと思うのはなんとなく「金持ち」というイメージがあります。これは偏見かもしれませんが、「貴族主義的友愛性のうえ友愛性に背く」例のひとつかもしれません。「あいつは芸術というものがわかっていないから、ピカソの美しさがわからないんだ」という「壁」がある感じです。この色使いが芸術的だ、この構図が芸術的だ、この記号化が斬新的だ、これは~のオマージュだ等々ある種のオタク的な、知る人ぞ知るような美の界隈があるのは確かです。

そうしたモダンアートに比べ、自然の美は頭ではなく感性的で、より直接的な美があります。「ああ、美しいな、よくわからないけど好きだ」というイメージです。こうしたものはもしかしたら連帯しうるのかもしれません。現代美術は「作品が意味しているもの」に良さをもとめますが、自然そのものは意味に関わらず、ありのままでどこか美しいのです。だからいって現代美術がダメだとかそういう話ではありません。

近世では幾何学的なアートのように人間の感性を置き去りにして「理性によって美を発見する」ようなある種の技術論の感じがあります。法則さえ見つければ自動的に美は構成できるイメージですね。これはフランス式の庭園のイメージと少し似ています。それにくらべ、イギリス式の庭園はより自然的で、直感的に美しさが想起されます。ある種の「複雑系」的なものがあると思います。

連帯性や普遍性にベクトルが向けば、それは哲学でいえば現象学的な美になるのかもしれません。自然の連帯しうる美の要素を模倣するなり取り入れるなりするアートは良いなと個人的に思いました。つまり理性的な美よりも感覚的な美のほうが連帯しやすいなという感覚があります。どこかあたたかい感じがします。連帯できる美なので、他人と似ているかどうか、個性があるかどうかは重視されません。美を共有できたという喜びに溢れています。相対的な美、絶対的な美、普遍的な美、それぞれに良いところがあり、それぞれに悪いところがあると思います。我々はどこへいくべきなんでしょうか。どこからきて、どこへいくのでしょうか。

ここまでで、ベーコンとは対照的なデカルトの姿勢が強調されたかもしれない。ベーコンが五感を頼みにして、データ、実験、機械的操作の術を知の土台と見るのに対し、デカルトはそれらを純粋な精神の明晰さをかき曇らせる異物として、まずは排斥し、幾何学に基盤を持つ知の獲得方法を発見した。外界を知るための第一ステップは、複雑に見える問題をその複雑さのまま記述すること。そうしたら次に、その紛糾して不明瞭な問題を分解し、最も単純な構成要素を取り出す。この基本ユニットのレベルでは、明晰判明なるものはすぐさま見て取ることができるだろうから、それをきちんとおさえて、あとは純理論的に問題を再構成していけばよい。このやり方で行けば、複雑に見える問題も、人知による征服が可能である。我々みずからがそれを分解し再構成した以上、その問題は我々によって「知られた」のだ。──この方法論はデカルトにとって、探求の果てに掘り当てた金の鉱脈だった。これこそ世界を知る唯一の鍵だと彼は考えた。「幾何学者たちが、あれほど困難な証明問題を、かくも単純明快な論理の連鎖を延々とつないでいくことで解いてしまう、そのやり方を適用することで、およそこの世で知りうることは、すべて知られるのではないだろうか……」

このデカルト的思考体系が、その後どのように人々の意識に食い入り、西洋における意識の歴史を方向づけたかということに思いを馳せるとき、その測り知れない影響力に呆然とするほかはない。

「デカルトからベイトソンへ」モリスバーマン 柴田元幸訳 国文社 32P

最後にデカルトの「知の獲得方法」を紹介して終わります。自然は分解して再構成したら意味を失ってしまうような、より複雑なものだと思います。人間の体と同様に、自然は生きています。社会学の分野でもシステムは要素に分解して理解することができないという考え方があります。ルーマンの「社会システム理論」で知られているとおりです。デカルト的な還元主義では知ることのできない何かが自然にはあると思います。であるとすれば、美も同様だと思います。個々の要素は全体の文脈によって変わり、個々の要素だけでは理解できないなにかがあるのです。美の理論が「複雑系」で解明できるかどうかは別としても、美は感じようとすると単純で、理解しようとすると複雑だなと思います。だからこそ感じたことを素直に表現することも時には重要なんだと思いました。別の言い方をすればデジタル的な知とアナログ的な知ですね。あるいは暗黙知かもしれません。簡単に言葉にできない知識です。

感想元のスレのまとめ

美の本質とはなにか?

今回おすすめする書籍

マックス・ウェーバー「職業としての学問」 (岩波文庫)


職業としての学問 (岩波文庫)

モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化」(国文社)


デカルトからベイトソンへ―世界の再魔術化

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