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感想
この記事についての感想です
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信念について
前回は「信念」に関連付けてトレースについて感想を述べました。今回はすこし違う角度で検討したいと思います。まずはざっくりと前回の「信念」に対する考えをまとめます。
法律の話はひとまず専門家に任せておきましょう。法律は社会的・一般的に善か悪の問題に過ぎないと思います。強い信念があれば善か悪ではなく、好きか嫌いかが重要になってきます。つまり信念の問題です。自分が生きる意味、目的、方向に関してどれだけ重要かという個人的な尺度としての信念です。法律に違反するから悪だ、許せない!という批判はもっともです。法律に違反しなくても個人的に許せない嫌いだ!というある種の他者の信念に基づく批判はもっともです。
しかし私の信念に比べればそんな批判は知ったことではない、という態度もとることもできます。信念に対して有用だった場合は、その批判はありがとう!という気持ちも同時にもつことができます。恥知らずでいい。批判されてもいい。ただ私は信念を持つということに強い幸福を感じている、人生に悔いはないという態度をもとることができるとおもいます。
こうした態度はときに独善や欺瞞、横柄さといったものを生みかねません。しかし上手く付き合えば、その人の創造性を飛躍させることができると思います。どうせ人は死ぬのだから、飛ぶしかないでしょう。飛んで死にましょう。おまえは空を飛べないとライト兄弟だって言われてたに違いありません。コペルニクスだって当時の人々に恥知らずと批判されてたかもしれません。
オリジナリティ(独創性)とはなにか
今回は「オリジナリティとは関係の付け方である」というテーマでトレースや模写を検討してみたいと思います。
このテーマは大澤真幸さんが「考えるということ(河出文庫)」という本で紹介している考えです。以下にその概要を引用したいと思います。
オリジナリティのある仕事のどこにオリジナリティがあるのか。私の考えでは、それは、ものの関係のつけ方である。AとB、それぞれの発見は別々にある。けれども、そのふたつがつながったときにはAそのものとBそのものが違ったものになるということがある。だから、『関係づける』という知の営みこそがオリジナルな思考のいちばん肝心な部分なのだ。AとBとの関係は、AそのものともBとも違う、第三の要素である。AとBとの間の、真空に見える場所に、第三の要素の存在を見出すことができれば、オリジナルな研究である。この『関係づけ』の有力な手段の一つが、補助線を引くことである。思いがけないところから導入された補助線によって、まったく関係がなかったものが関係あるように見えてくるということ。
(大澤真幸「考えるということ(河出文庫)」15-16P)
さて土屋アンナさんの鬼滅の刃の二次創作の模写は、オリジナリティがあったでしょうか?
この際、法律がどうだとか、個人の好き嫌いだとか、マナー云々だとかは置いておきます。そういったものは神々の闘争であり、なかなか決着しがたいもので、また多数の声が力をもちすぎます。
Aが二次創作のイラストであったとして、Bはなんでしょうか。土屋アンナさんはAとどういう関係の付け方をしたのでしょうか。第三の要素を見出すことができたでしょうか。
一次創作、または二次創作のイラストはオリジナリティがあったでしょうか?どういった関連付けをしたのでしょうか?法的に著作権が保護されることと、作品が独創的かどうかは別の問題です。保護されてるからといって独創的であるとは限りません。
WIKIによれば以下のようにあらすじがありました。
時は大正。主人公・竈門炭治郎は亡き父親の跡を継ぎ、炭焼きをして家族の暮らしを支えていた。炭治郎が家を空けたある日、家族は鬼に惨殺され、唯一生き残った妹・竈門禰豆子も鬼と化してしまう。禰豆子に襲われかけた炭治郎を救ったのは冨岡義勇と名乗る剣士だった。義勇は禰豆子を「退治」しようとするが、兄妹の絆が確かに残っていることに気付き剣を収める。義勇の導きで「育手」鱗滝左近次の元を訪れた炭治郎は、禰豆子を人間に戻す方法を求め、鬼を追うため剣術の修行に身を費やす。2年後、炭治郎は命を賭けた最終関門である選別試験を経て、「鬼殺隊」に入隊する。
人間をAとして、鬼をBとしてみます。それらをどういう補助線で引くのか?「鬼化する」というのはある種の補助線かもしれません。同一化してみたら面白いのでは?という補助線かもしれません。しかし人間が鬼になる、というアイデアは昔にあったでしょうか。古今東西の漫画を知り尽くしていないのでわかりませんが、似たようなテーマは偏在しているように思えます。人間に戻す方法を求め、という要素もどこかで聞いたことのあるようなテーマです。鬼退治というアイデアもそうですよね。服装だって市松模様はありふれたアイデアです。色使いだってそうです。
このように要素要素で見てみれば、どれもこれも独創性がないものばかりです。しかし、「AとBの関連付け」をさらに「CとDの関連付け」へ関連付けを行い、さらに「EとF」云々と連綿とつながる関連付けを行うことで、その作品は過去に同一の関連付けをしたものがないような、ある種の独創性を帯びると思います。
お、こんな補助線は誰も入れたことがないぞ?というような偉大な創作もあるでしょう。しかし抽象化してみれば同じようなテーマが偏在しているはずです。人間が神になる、人間が鬼になる、人間が悪魔になる、人間が死神になる、人間が狐になる、人間が猿になる、云々。「人間が人間ではないものになる」という補助線という観点からとらえれば似たようなものです。
こんなことをいってしまえば抽象化すればみんな独創性がなくなるじゃないか、という意見はもっともです。A(人間が鬼になる)とB(人間が死神になる)は、共通の構造があるのではないか?という補助線を入れてみて解釈するのも独創性かもしれません。もっとも、このような補助線はだれでも思いつきそうなもので、オリジナリティがあるかはわかりません。
ジョジョのスタンド・波紋能力も、ワンピースの悪魔の実も、ハンターハンターの念能力も、抽象化してしまえば「超能力」です。しかし、超能力を何と関連付けさせるか?どういう補助線をいれるか?という点に独創性のチャンスがあるのかもしれません。果実と超能力を組み合わせてみた、その組み合わせ方に独創性があるのだ!といえるかもしれません。さらには食べたものは泳げなくなる、とさらに要素要素を組み合わせていくのです。
一度作品の独創性と見られるものを抽象化して、自分だったらなにと組み合わせてみるか、どういう補助線を入れてみるかと考えるのもいいかもしれませんね。
法的な保護は「誰が先に創ったのか」ではなく「誰が先に登録したか」である
芸術はいつから「誰が創ったのか」が重要になったのでしょうか。おそらく経済や科学、法整備が発達するにつれて、「著作権」が重視されるようになったのでしょう。外国に簡単にパクられると、貿易で赤字が出てしまいます。他国が儲かり、自国が貧すると国家防衛の点で考えても不利になります。アニメ・映画・漫画は日本では重要な外貨獲得の手段のひとつです。簡単にコピーさせるわけにはいかないのです。自国民に対してもそうです。近代化によって「誰が創ったのか」が重要になります。「お金」が発生するからです。それに個人規模で考えても、クリエイターだってある程度のお金のインセンティブは重要です。お金が重要になるのは資本主義の当然の帰結です。価値が貨幣で測られるからです。さらに、自分の創作物が法律によって守られるというのは、クリエイターに安心を生み、同時にやる気も生み出します。
法律によって守られるのはいいが、独創的かどうかではなく、誰が先に登録したか、公表したかという「順番」も重要になってきます。過去の検証など、どうでもいいのです。それに遠すぎる過去は著作権が切れています。
後から、それ俺が先に考えていたんだけど?といっても相手にされないケースが多いです。なぜ登録しなかった?なぜ公表しなかった?証明できるのか?と突き返されます。つまり、誰が「先に創ったか」ではなく、「先に公表・登録したか」が重要になります。実態よりも形式が重視されます。
特許、商標、著作権云々のいわゆる「知的財産」はさまざまな分野であります。軍事産業から文房具に至るまでさまざまな知的財産が登録されています。かじったりんごのアイコンで有名なappleのロゴも知的財産としてまもられています。こんなもののどこに独創性があるのか?だれかしら同じようなデザインで描いた人がいるだろう?と思う人もいるはずです。ナイキのチェックマークについても同様です。しかし「先に登録したから知的財産として守られる」のです。後の世代になればなるほど、このデザインもだめ、あのデザインもだめ、似てる、すでに登録されている、と門前払いになります。
悪魔の問いかけについて:オリジナリティの検証不可能性について
しかし、こういう試みには常に悪魔の問いかけがあります。「その関係付け、おまえがオリジナルだと確信するのは良いが、過去のすべて、そして現在の全てを検証したのか」と。
これは難しい。検証なんて無理ですよ。著名な作品なら自分である程度検証することができるかもしれません。しかし、あまりにも多岐に渡りすぎています。アニメ、漫画、小説、映画、演劇、Twitter、ブログ、掲示板、古代や中世など現在に残っていないもの、翻訳や理解が難しい外国語で作成されたもの、云々。無理です。さらに公表されていない私的なものまで含めたら、途方もなく無限に等しいです。公表を先にしたから、先に有名になったからこっちのほうがオリジナリティがある!というのは法的な問題であり、自己満足です。
この色使いは自分がオリジナリティだ!と青と赤と黄色と緑とを組み合わせたとしても、多分だれかがすでにやっています。そこにピンクや紫を加えても、多分だれかがやっています。その他が全く同じだけど、明度の数値が1違うからオリジナリティがある!というのはもしかしたらあるかもしれません。しかしいずれにせよ検証不可能です。
たしかに関係づけを連綿と重ねることによって、このような関係づけは過去にだれもやったことがないはずだ!このような文脈で、このようなキャラで、このような色で!このような背景で!と言うことは可能です。たしかに要素要素で見ずに、具体的に関連付けの積み重ねとして、相対的に作品を見れば、やっぱりこれは独創的だといえるかもしれません。検証不可能性だろ!といったところでそれは極論だ!という批判ももっともです。神はいるのか?世界はどこまでひろがっている?という哲学的な無限性と等しいです。
法律のグレーゾーンのよさとオマージュ:松本零士の著作権意識について
日本漫画家協会著作権部責任者やコンピュータソフトウェア著作権協会理事などの役職を持つ立場にあることもあって、著作権に対し敏感な面があり、過去に著作権関連のシンポジウムで「孫子の時代まで自分の著作権を守りたいというのが心情だ」と述べたこともあるほか、自らが過去に漫画の中で使用した台詞等の表現を「創作造語」と称し、それに似た表現を他者が無断で使うことに否定的な見解を示している[31]。
松本が著作権に強硬なのは、『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できないことが一因だという[32]。 2002年には自らが原作のテレビアニメ『SPACE PIRATE CAPTAIN HERLOCK』がダビデの星を敵のデザインに使ったことから、ユダヤ人感情に配慮して一時製作中止にさせたこともあった[33]。
権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である[32][34]。自作を笑いのネタにしたパロディ的な引用にも、松本自身が「面白い」と思えば快く許諾する傾向にある。但し「面白くない」と感じたパロディ的な引用には非常に厳しく、名指しで非難したり、担当編集者や漫画家自身を呼びつけて説教することもあるという。
2006年、槇原敬之がCHEMISTRYに提供した楽曲『約束の場所』の歌詞の一部が、1996年から再開された新展開編『銀河鉄道999』の作中のセリフの盗用であると、松本零士は10月19日発売の『女性セブン』で槇原敬之を非難した[52]。翌日20日の日本テレビ系『スッキリ!!』にも生出演し、同様に槇原を盗作したと非難した[53]。 これに対して槇原は記者会見で否定し、同年11月7日付の公式ホームページにて「『銀河鉄道999』は個人的趣味で読んだことが無く、歌詞は全くのオリジナルであり、本当に盗作だと疑っているのなら(自分を告訴して)裁判で決着していただきたい」旨のコメントを発表している[52]。
2007年3月22日、『スッキリ!!』における松本の発言をめぐり、槇原敬之が松本に対して、盗作だと言っている部分に対して証拠を示して欲しいと著作権侵害不存在確認等請求を東京地方裁判所に起こした。裁判で松本側が盗作だという証拠が示せなかった場合は、CMソングの中止などにより、2,200万円の損害賠償請求も行った[54]。これについて松本は3月26日のトークショーで「男たるもの、負けると判っていても戦わなければならない時がある、一連の訴訟について口頭弁論などに立つ気はない」とも語った[55]。
2008年7月7日、東京地裁で槇原、松本が口頭弁論のため、事件以降、初めて顔を合わせた。槇原はニュースやマスコミなどで取り上げられ、「泥棒扱いされてもしていないものはしてない」「(問題の歌詞の部分は)仏教の因果応報の教えから」「謝れば許すつもりといっているが、それは罪を認める行為だ」と弁論、直後に松本の反論を聴くことなく退廷した。松本は「このセリフは私の座右の銘」で「長く使い、媒体でも講演会でも発表している」「一言、公の場で『すまん』と言ってほしかった」「偶然としても、あそこまで似てるのはありえない」と反論した[56]。
同年12月26日、東京地裁は「原告表現が被告表現に依拠したものと断定することはできない」「2人の表現が酷似しているとは言えない」と依拠性と類似性という著作権侵害の2つの構成要件を認めず、槇原に対する名誉毀損を認め、松本に220万円の損害賠償支払いを命じる判決を下した[53]。その後双方とも控訴している[57]。
今回のまとめ記事でもグレーゾーンという言葉が使われていました。私的利用なら許されるのでは?とか、ファンアートだから許されるのでは?とかいった具合にです。営利的な二次創作もグレーゾーンとよくいわれますよね。
しかし法律に違反しているから、いつ訴えられてもおかしくないぞ、たまたま見逃されているだけだぞ、という恐怖も彼らにはあるはずです。これは二次創作同人誌界隈に固有の問題ではなく、一度創作にも同じ恐怖があるはずです。記事では呪術廻戦がハンターハンターと同じような構図であることを批判されていました。ジョジョの奇妙な冒険の作者も同じような批判がされていたことがありましたね。
WIKIいわく、「権利関係に非常にシビアである印象を持たれるが、作家に対する敬意があり無断で使うのでなければ他の漫画家やミュージックビデオ、広告等に自作のキャラクターを使うことには寛容である」らしいです。グレーゾーンだといのはおそらくこの点ですよね。著作権に対して敬意があるかどうかです。法的には違反していても、敬意があれば許される、なければ許されないというのはグレーゾーンです。「無断」というのもまたややこしいですね。「出典」や「許可」なのでしょう。これは企業がアニメキャラクターとして使う場合と、漫画家がパロディとして使う場合、あるいはトレースではなく、なにかと関係づけて創作された場合とで扱いが違うと思います。
「『宇宙戦艦ヤマト』や戦争ものなどを描く際には戦没者や民族感情に細心の注意を払って配慮しているのに、自分のあずかり知らぬところで、第三者によって自分の創作が意図に反した使われ方をされるのが我慢できない」というのも敬意と関係していますね。たしかに自分の著作物がひどく貶められる形でトレース、模写されていたら敬意が足りないからグレーではなくブラックという判断がされるかもしれません。
松本零士さんの著作物をAとして、なにか他の要素Bと関連付けて新しい要素として創作されていた場合(トレースや模写ではなく)はどうでしょう。これも判断が難しいですよね。法的に著作物と言えるかどうかは法定で決着することになってしまうかもしれません。
いずれにせよ芸術界隈では「敬意」が重要な要素となりそうです。軍事・製薬・精密機器・ロゴ等々では敬意なんて言ってられないからです。ある意味では芸術界隈に固有の概念がグレーゾーンであり、敬意だといえます。模写やトレースを自分の創作物であるかのように発表することは、敬意がないと思う人もいるでしょう。
最後に
芸術はグレーゾーンが存在するある種の特異な領域です。グレーゾーンが存在している理由は金銭的な問題以上に、著作権にこだわりすぎずに、皆で刺激しあって、アイデアを出し合って、文化を盛り上げていこう!といった意図あると私は思います。
グレーゾーンがブラックになったとしても、そこまで怒らなくていいじゃないか、芸術に限ってはといったような寛容な姿勢が重要だと思います。敬意がないと、あるいは金銭的な問題で許せないと判断した会社や個人にブラックだと判断されてしまったとしても、謝罪なり賠償なりをしていこうじゃないか。そんなギスギスしなくてもいいじゃないか。
仮にギスギスした反応や、「悪魔の問いかけ」に接触としたとしても、前述の「信念」で乗り切っていこうというのが私の感想です。人はいつか死ぬ、他人の批判など気にせずに自分の信念を突き通し、後悔せずに死んでいきたいものだ。いつか肯定してくれる人も出てくるはずだ。多くの人に批判されてもいいじゃないか。「芸術の恥はかき捨て」といこうじゃないか。
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