【感想】カメラ(トレース)と芸術と、デイヴィッド・ホックニー

デイヴィッド・ホックニーによる光学機器を使った画家たちの説明

ドミニク・アングル(1780年8月29日 – 1867年1月14日)

Jean Auguste Dominique Ingres 010 「ジャック=ルイ・ルブラン夫人の肖像」

フェルメール『牛乳を注ぐ女』1658年-60年頃。 アムステルダム国立美術館。

ホックニーいわく、ドミニク・アングルはなにかしらの光学機器を使ったという。素描にはカメラ・ルシーダ、油彩画の精緻なディテールにはカメラ・オブスクーラを使ったという。光学機器についての簡単な説明は後の項目で扱うことにする。ざっくりいえば、トレースして絵を描いたということだ。

あの有名な、不学のわたしでも知っているフェルメールも光学機器を絵に用いたらしい。レンズ職人であったファン・レーウェンフックが近所にいたらしい。

他にも著名な画家が光学機器を使って絵を描いていたそうだが、詳細はホックニーの本を見ていただきたい。ちなみに私は不学なので、レオナルド・ダ・ヴィンチくらいしか後は知らなかった。ファン・エイクは聞いたことがあるかもしれない。

画家が光学機器を使うことに対しての批判

「画家が光学機器を使うのは『ごまかし』であり、わたしの意見にしたがうと芸術家を天賦の才の持ち主とする考え方が成り立たなくなるのがお気に召さない。ここではっきりさせておきたいのだが、紙に絵を描くのは光学機器ではなく画家の手であり、それには非凡な技量を必要とする。光学機器を使ったからといって、絵を描くのが少しでも易しくなることはない。自分でも使ってみたから、わたしにはそれがよくわかる。しかし600年前の画家にとっては、光学機器によって得られる影像は実在する世界を見据え、それを鮮やかに表現する新たな方法と思えたろう。光学機器は画家に従来よりさらに生々しく、力強いイメージを得る術を与えたかもしれない。画家が光学機器を使ったと指摘することは、かれらの業績を少しも貶めることにはならない。わたしには、そのためにかえってかれらの素晴らしさが際立つようにさえ思える。14P」

「光学機器が絵を描くことはない。ただ映像、見た目を作り出し、寸法の手だてとなるにすぎない。この点をもう一度、念を押しておきたい。何をどう描くかを心に思い描くのはやはり画家の務めであり、映像を絵の具で描きとめるには、様々な技術的難題を克服する並外れた技量が求められる。131P」

デイヴィッド・ホックニー,「秘密の知識 普及版」,SEIGENSHA

たしかにそうかもしれない。「何を」描くのかは画家の選択によるものであり、「どのように」写し取るかも画家の選択によるものだ。同じ光学機器を使ったとしてもほとんどの人が同じように精緻に描くことは難しい。ホックニーいわく、光学機器を使うことは画家の業績を少しも貶めることにはならないという。

話を現代に移してみる。最近ではデジタル絵が画家(素人からプロまで含めて)の人口としては多くなっている。便利なツールはたくさんある。トレースだけではない。パース機能、スポイト、定規、ぼかし、云々だ。そうしたテクニックと光学機器の使用との差異は一体どこにあるのだろうか。

これは真摯に考えてみるべき問題である。人が描きたいものを考え、どう表現するか、自分が納得できる地点に着地できるか。辛い道を渡れば良いというものではないと思う。便利な道具を使うことが許されて、トレースの技術が許されないなんてことはない。

【感想】選べ人生を!選べ芸術を!模倣と創造について

「トレース」が問題となるのは、一般に”他人の作品”のトレースであり、”自然の”トレースではない。古代から自然を写し取ることは芸術の一つの目的だった。現代のトレース問題の多くは他者の作品を自分の作品だと偽った場合だけだと思う。いわば中国のDVD海賊版のようなものである。われわれに入るべき金銭的な利益や名誉を妨げるべきではないというわけだ。俺と同じ富士山を描くな!と人は言えない。しかし俺が描いた富士山をそのままトレースして発表するな!とは言えるだろう。自然と人工物の違いである。

ある人の目的が、自然を物理的に完璧に写し取ることなら、光学機器を使ったほうが良い。そのほうが早いし、正確だ。おい、ズルしてるんじゃない!と非難されるかもしれない。目で見た通りに紙とペンだけで凄まじい集中力と才能と奇蹟の連続によって自然を完璧に写し取れたとする。しかし、その”結果として”トレースした作品と全く同じ作品に仮になったとしたらどうだろうか。極論で言えば、うますぎる自然の模写はなんだトレースかと思われてしまうわけだ。

それでも人は言うかもしれない。結果じゃない、過程が大事なんだ。必死に時間をかけて努力したから凄いんだと。その才能に人は感嘆するのだと。その高尚な他者から見た価値に対しては、なるほどと思う。しかし本人からしたら「そんなことはどうでもいい」かもしれない。なぜならば、ある人の目的が「自然を完璧に写し取ること」であり、「他人によく思われること」ではないからだ。

生徒が先生に褒められることのみを目的として美術の授業で絵を描く場合はもしかしたら「過程」が大事かもしれない。先生は言うかもしれない。大事なのは過程だと。数学のテストの結果だけよければカンニングすればいい。しかし違うだろうと。他に役立つ機会があるだろうと。他の絵を描くときにも「認識力、集中力、云々」役立つじゃないかと。しかし本人からすれば「そんなことはしったことか、それは俺にとっては重要な問題ではない」かもしれない。ホックニー本では「生業」としているから時間を惜しんだという画家のエピソードがあった。目的が「お金を稼ぐこと」なら過程ではなく結果(速さや正確さ)が重要になってくることもあるだろう。

トレースは模写よりも低く見られがちだ。一般的に模写はトレースのようになぞって描くわけではない。だから練習にならないという。しかし昔の画家は練習のためにトレースというよりも、作品として自然をトレースしていた。

9割くらいしか写し取れていない、その不完全さが妙に良いということすらあるかもしれない。トレースしたものより、不完全な模写のほうが人間らしさがあっていいな、と思うことはたしかにある。だから目的次第なのだ。目的が「他人に良く見られたい」である場合は、模写で9割位の精度で写し取ったほうが美的価値観を人に起こさせるかもしれない。もっともトレースをしたからといって、色の選択や道具の選択等々の問題がある。人は完全に自然を写し取るなんてことはそうそうできない。そこには結局努力が必要になる

楽にできる要素は楽にして、残りの色や道具の選択、光の研究等々に時間を費やすというのもまた合理的な選択のように思える。完全主義が必ずしも良いわけではない。「何をどう描くかを心に思い描くのはやはり画家の務めであり、映像を絵の具で描きとめるには、様々な技術的難題を克服する並外れた技量が求められる」というホックニーの言葉はそうした意味なのだと思う。

技術を学ぶことはなんら画家を貶めるものではない。クリスタでペンと白紙だけ使えと言っているようなものに見える。人はさまざまなツールを学ぶ。最近では3dでポーズを取らせたりする。そういう「自分にはあまり重要ではない過程を省略すること」もときには大事なのだと思う。本当にそう思う。自分が省略できない人間であり、つまづいているからこそ、そう思う。

トレースしなかった絵と、トレースした絵

 

 

「Pastoral Scene」 Peter Paul Rubens

 

A Laughing Violinist (1624)
Gerard van Honthorst (Dutch, 1592 – 1656)

「ルーベンスが優れた素描家で、大量の作品を残したことをはよく知られているが、ホントホルストとベラスケスはごく僅かしか素描を残していない。照明にも大きな違いがあり、より明るく、強烈で、今日の写真家がモデルを照らすのにもよく似ている。ルーペンスは記憶にたよって、あるいはモデルを見て描いたようだが、ほかのふたつの顔はそれとはまったく異なる方法で描かれたことを示す的確さ、真に迫った感覚、『見た目』が備わっている(168P)。」

デイヴィッド・ホックニー,「秘密の知識 普及版」,SEIGENSHA

どちらが良い絵なのか、わからない。これは個々の美的価値観、主観的な価値観、つまり「趣味」による。私は納豆を美味しいと思うが、まずいと思う人もいる。美的感性は舌の感性とよく似ていると言われている。頭で考えるのではなく、感じるものだからだ。だからこそ趣味の価値観はときに人と共有できるし、また人を分断する。

しかし私個人的にどちらの方の絵が美しいか、良いかと聞かれてもよくわからない。右はよく描けていると思う。写実性ではおそらく右(記事で言えば下のホントフロストの絵)のほうが勝っているようにも思える。しかし左も左でなかなかいい。

こういう記事は思ったことをそのまま垂れ流しがちで、あまりまとまったことが言えなくて申し訳ないと常日頃思っている。後で整理して推敲するといったこともこの記事ではしたくない。なぜならただの「感想」の記事だからだ。だからこそ気軽に、頻繁に投稿できる。そういう場所が欲しかった。

ところで、写実性は自然にある程度縛られるものだと私は思う。見たものをそのまま描く必要が一定の範囲で出てくるからだ。もちろん自然を写し取りつつも、自分の美的感性を取り入れ、部分的にあるいは全体的に改変することもこの画家にはできるかもしれない。しかし、「そのまま描く」というスキルを磨くことに固執し続けた場合、そうした柔軟性を失うかもしれないとは思ったことがある。あれ?どうやって自由に描くんだっけ?となりかねない。これは先日投稿した、デッサンにこだわりすぎて目的を見失い、手段に傾倒するという話に近い。

本当に自分の目的が「見たものをそのまま描く」なら柔軟性はまるで必要のないものかもしれない。この人の中では、自然と自分の美が一致しているかもしれないし、あるいは「売れればいい」かもしれない。しかし自分の美が自然を模写しただけでは表現できない場合、抽象的な唯美主義、耽美主義に近いような場合は写実では満足できないかもしれない。自分の曖昧模糊とした概念的なものを表現したい場合に、「見たものをそのまま描く」という技術がまるで役に立たないこともある。現代では他者との差異、自然よりも人間、集団より個人、模倣より個性、依存より自立が(是非は置いておいて)重視されがちだ。そういう世界では「考えたものをそのまま描く」技術が必要になる。

そうしたものを考えると、やはり「自然のトレース(模倣)」以外のスキルも鍛えておくべきなのかもしれないと思う。つまり、「考えたものを自分の力で構成できる力」がなにかしらの手段によって達成される必要が出てくる。これがベティ・エドワーズの「モードの切替」かもしれないし、ひたすら「目で見た模写」を100万回繰り返して「なにか構造をつかむ」ことかもしれない。方法論として「カメラを使う」かもしれないし、「液タブ」を使うかもしれないし、一見美術とは無関係な「メディア」や「技術・知識」が用いられるかもしれない。

個人的な視点では、カントがいったように自然などの物体は”我々に対しての表れ”にすぎず、我々は”我々に対しての表れ”を模写しているに過ぎない。プラトン的に言えば神様の影を神様だと思って必死に模写しているような状態だ。たしかに神様の影なので、美的な要素の片鱗はあるが、所詮は影に過ぎない。あるいは青色のサングラスをかけて物体を見ているような状況にも似ているかもしれない。いずれにせよ、美の本質が知覚や理性の範囲において”全て”立ち現れていると考えるのは少し傲慢な気がする。つまり自然の我々に対する表れをそのまま表現したからといって、美を全て表現できたというのはある種の自己欺瞞なのかもしれないと思った。それも価値判断なので、あまり深堀りはしないことにする。

自分が芸術として表現したい「何か」をどうやったら達成できるのか。その手段において「恥じ」などとは言ってられないだろう。トレースでも液タブでもなんでもかんでも総動員して目的に向かって突き進んでほしいと思う。「他人に評価されたい」ということなら、「恥じ」を気にする必要があるかもしれない。やはり目的と手段をスタートラインでよく考えるべきなのだと思った。全ての芸術家が自分の責任と選択において、なにが美かをひたすら自分の限界まで模索していくのは素晴らしいなと思った。

資料として構成的に模写をするという試み

The Entombment of Mary is a Gothic tempera painting created by Giotto di Bondone in 1310.

ミケランジェロ・メリージ・ダ・カラヴァッジオ『愛の勝利』(1601年 – 1602年) 絵画館、ベルリン

 

ああ、そういう方法もあるんだなとしばらく口が開いたままになった。しかしよく考えれば、現代の人ならネットの資料を検索してトレースなり模写なり参考なりしてしている行為だ。一時期ある人が「資料としてのトレース」で炎上していたが、それは非常に現代的な理由(知的財産権等)からの批判だったのであまり興味がない。

ホックニーの説明では、カラヴァッジョは目の前に本物の翼、たとえば鷲(わし)の翼を置いて描いたのだろうと推測している。上の翼(ジョットが描いた天使の絵)にはリアリティがないように思われるが、その当時は光学機器などが発明されていなかったからとも考えられる。

カラヴァッジョは常にモデルを写生していたらしい。実際に目の前にある自然を組み合わせる、目の前にある自然だけで組み合わせるというのはなかなか人間的だなと思いました。そう考えてみれば世の中の殆どは自然のものの組み合わせであり、あるいはその抽象化の組み合わせかもしれない。

ホックニーによればカラヴァッジョは「あいつはモデルがないと描けない」と当時批判されたらしいが、カラヴァッジョの目的ではそんな非難や恥じなどどうでもよかったのかもしれない。信念さえあれば、方向さえあれば充実するのだと思う。

カメラの仕組みについて学ぶ

カメラの起源である「カメラ・オブスクラ」とはなにか

nikkeiさん助けて。もう子供とは言えない年齢だけども、知識は子供以下かもしれない。しかしありふれた物事の仕組みを詳細に知っているというケースは意外と少ない。インターネットの仕組み、電子レンジの仕組み、冷蔵庫の仕組み、電球の仕組み、水道の、車の、ガスの、なにひとつ詳細に知らない。ああ、そうさ私は何一つ詳細に知っていはない。せめて絵に関することくらいは詳細に理解できているようになりたい。しかしこだわりすぎてはいけない。木を見て森を見ずはよくない。しかし森を見て木を見ずはよくない。バランスよく両方を往来せねばならない。

なるほどカメラの仕組みと眼の仕組みは似ているのか。これも昔、それもはるか昔の小学生のころに先生が説明してたような気がする。

「真っ暗な部屋のかべに小さな穴をあける。穴から差し込む光が反対側のかべにあたって外の風景がさかさまに写しだされる。紀元前から知られていた現象だ」とあるが、正直よくイメージできない。

これは手持ち式のカメラ・オブスクラです。ラテン語でいうところのcamera obscuraであり、「暗い部屋」を意味しているそうです。カメラの語源でもあります。

小さな穴を光が通り、壁に外の景色を映し出すそうです。

より現代的な図がありましたので、そちらを引用します。外の景色がよく見えていますね。まるでカメラです。しかも色もついています。

カメラ・オブスクラの原理はこのようなものだそうです。上下左右反転するらしいです。鏡の場合は左右反転ですが、カメラ・オブスクラの場合は上下も反転するんですね。

そういえば色は光の波長の差異でできているし、物体も光がなければ見えないという話を聞いたことがあります。また、ディスプレイで見る画像も光だったような気がします。小さなから光が入り込み、そのさきで再び像を云々カンヌンアブラカタブラっと。

被写体の各点において乱反射(散乱)した光のうち、ピンホールの1点に到達する光線のみを通すことで、像面に被写体の像を得るという、最も単純なカメラの方式であり、実用的なレンズの開発以前からあったカメラである、初期のカメラ・オブスキュラの原理と全く同じものである。

誌レンズをつ変わらない針穴を利用したカメラをピンホールカメラというそうです。なるほど、うん。ピンボールじゃなくてピンホールですね。

これがピンホールカメラで撮った写真らしいです。仕組みはよくわかりませんが、「写真機として写真を得るには、写真フィルム等の感光材料や撮像素子などを置いて像を得る」らしいです。

いわゆる「フィルム」ですね。デジカメが主流となった時代にはあまり見かけませんが、カメラ屋さんにもっていって「写真」にしてもらったらしいです。フィルムがある特定の波長に反応するらしく、それで色の違いが出るんですね。フィルムってこんな感じで難解も重なってるんですね。赤色、緑色、黄色、青、云々に反応するフィルムがそれぞれあるようです。なるほどおもしろい。

カメラ・ルシーダ

https://ja.wikipedia.org/wiki/%E3%82%AB%E3%83%A1%E3%83%A9%E3%83%BB%E3%83%AB%E3%82%B7%E3%83%80

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カメラ・ルシダを覗くと、覗いた先にある物体の姿と、覗く人物の手もとにある紙など描画する対象の表面の画像とが重ねあわされる。画家は目の前に、描きたい物体や光景と描くための紙とを同時に二重写しのように見ることができる。これによって画家は、目の前の光景から手もとの紙へ、遠近法の要となる部分の点や物体の輪郭線を転写できるので、遠近感の正しい透視画や本物そっくりの絵を描くことができる。

カメラ・オブスキュラが「暗い部屋」だとすれば、カメラ・ルシダは「明るい部屋」だそうだ。1806年にウィリアム・ハイド・ウォラストンによって発明されたらしい(ケプラーのほうが早かったらしいが)。

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19世紀初頭、カメラ・ルシダは旅行者や画家らによって明るい場所でのスケッチなどに広く使われていた。写真技術の先駆者の一人であるイギリスの貴族ウィリアム・ヘンリー・フォックス・タルボットは、1833年にイタリアへ新婚旅行に行った際、カメラ・ルシダを使って旅先の風景をスケッチした。しかしカメラ・ルシダで一生懸命描いたスケッチの出来ががっかりするものだったため、自然の風景を紙に刻み付けるための手段を求めて写真(カロタイプ)を発明するに至ったと、彼は後に述べている。

これがカメラが発明された所以ということですね。カロタイプは史上初のネガ・ポジ法であり、複製が可能だったそうです。写真システムにおいてネガ像から焼付けによって任意の大きさのポジ像を所望の枚数作成する方法をネガポジ法と呼ぶらしいです。ネガ像とは「被写体の明暗が逆転した階調で表現された写真」です。ポジ像とは「色彩が逆転せずに表現された写真」です。

出典 カロタイプ(タルボット撮影、1842年または1843年頃)

正直よくわかりませんよね。現代の写真では明暗がそのまま写真に出ます。明るい部分は、明るく写真になるはずです。しかし当時は明暗が逆転した写真だったらしいです。明るいところが暗く、暗いところが明るくなっているということです。どういう原理でそうなるかは理系の方々はWIKIで見ていただくとして、とにかくそういうネガティブ像の写真を作ることができたそうです。また、ネガティブ像を複製してポジティブ像を作成できたことが、発明的だったそうです。つまり、1枚のネガティブ像から何枚でもポジティブ像を複製できるようになったということです。ポジティブ像とは現代の写真のように明るいところは明るく、暗いところは暗くなっているということです。当時はモノクロ写真ですけどね。

今回の感想元のスレ

ほんとうは宮崎駿の馬車のパースについて検討するはずだったのですが、だいぶそれてしまいました。

カメラとはなにか?がわかれば、広角レンズ・標準レンズ・望遠レンズの理解もすこしたやすくなるはずです。望遠レンズについて理解できれば、望遠圧縮についての理解が容易になるとおもいます。つまり馬車のパースについての理解の助けになると思います。といっても、まだ検討していないのでわかりません。いずれ(おそらく次回)検討します。

https://souzoumatome.com/perspectives-ch/

今回おすすめする書籍

デイヴィッド・ホックニー「秘密の知識 普及版」


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