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創造性とはなにか
創造とは
アルバート・アインシュタインによる創造のイメージ
「たいていの場合、問題を解決することよりも提起することのほうが重要だ。問題の解決は、数学や実験のスキルがあればすむ話なのだから。新しい疑問や新しい可能性を提起したり、旧い問題を新しい角度から考察したりすることは創造的なイマジネーションを必要とし、科学に真の発展をもたらす(アルバート・アインシュタイン『物理学はいかに創られたか』1938年)」
やはり、「新しさ」が強調されていますね。今までになかったような「新しさ」が創造のキーポイントらしいです。
以前この「新しさ」は「悪魔の問いかけ」で検討しました。
「その関係付け、おまえがオリジナルだと確信するのは良いが、過去のすべて、そして現在の全てを検証したのか?」
というやつです。科学の分野では、ある程度検証が容易いかもしれません。そういう界隈では論文等で発表して、公にするのが慣習になっているからです。自分の考えた発明がすでに発表されているかどうか、本なりネットなり学会なりで検証・討論すればいいからです。
”経験科学”の分野ではそうした検証がある程度は容易いです。「学問」の分野でもある程度はそうです。しかし「芸術」の分野となると、それはひたすら難しい。よっぽど奇抜な絵ではないと「独創性」が認められにくい。
創造性は奇抜ならいいのか?新しければ良いのか?
マルセル・デュシャンによる『泉』(1917)
モダンアート(現代美術)の先駆けとして知られているマルセル・デュシャンによる「泉」です。ちなみにこの記事のサムネの絵はワシリー・カンディンスキーの『即興 27』です。
浅学な私はこれらの作品の意図や評価、価値にたいしてよくわかりません。しかし私の感性はこれは「美しくない」と言っています。しかし同時に、これは「新しいもの」なのでしょう。トイレと泉をかけ合わせるなんて、創造的だ!!!!!と思う人もいるかも知れません。じゃあ景色を写実的に描いた絵は創造性がないのか?難しい話です。
あれ・・美術の創造性ってこんなんでいいのか。先に組み合わせたもの勝ちか?新しいだけか?奇抜なだけか?と頭で木霊します。科学の分野では今までだれも思いつかなかったような技術や数式等々で世の中を便利にしていく要素があります。あるいは核爆発など世界を壊す要素もあります。芸術における創造性とはなにか。経験科学は芸術ではないのか。
新奇で独自かつ生産的な発想を考え出すことですか・・つまり新奇だけではだめなんですね。「新奇(しんき)」と目新しく、物珍しいさまを意味します。たしかにデュシャンによる『泉』は新奇です。また、彼の独自の考えかもしれません。独自(どくじ)とは「 他とは関係なく自分ひとりであること」です。たとえば他の人の作品を真似たら独自性がなくなります。
生産的(せいさんてき)とは、「直接、生産にかかわるさま」と「建設的で意義のあるさま」の2つの意味があります。デュシャンの絵が意義があるかどうかは「誰が」決めるのでしょうか。美術の分野は科学の発明や数式の発見のように、役立たないといけないのでしょうか?
創造と創造性
そもそも「創造」と「創造性」は違うんですよね。創造の要素がすこしであもれば、創造的だ!創造性がある!といえますから。海外の辞書では創造性を「創造する能力」という曖昧な定義付けをしているそうです。学力は関係あるの?と思うかもしれませが、学力と創造性は必ずしも関連していないそうです。
ベティ・エドワーズにおける「創造性」の定義
いよいよ本題です。創造性とはなんなのか?
現在のところ、創造性について一般に受け入れられている定義は存在しません。つまり、創造性とはなにか、それをどう学び、教えるべきか、そもそも、学んだり教えたりできるものなのかについては、いまだに一致した見解がないのです。
「内なる創造性を引き出せ」、ベティ・エドワーズ、河出書房新社、2P
なるほど、一般に受け要られている定義は(やはり)ないんですね。
なるほど!そういうことだったのか!誰でも、そんなうれしい瞬間を味わったことがあるでしょう。頭のなかにパッと電球が灯るあの瞬間、つまり、創造性にともなう『アハ体験』です。ところで、創造性とはなんでしょう?それは問題解決をうながす力であり、効果的な意思決定を導く力であり、人間の願望や知性のニューフロンティアを切りひらく力です。世の成功者たちは、ひらめきの電球のスイッチをいつでも入るようにしておくことで自身の創造力を活用する方法を身につけています。
「内なる創造性を引き出せ」、ベティ・エドワーズ、河出書房新社、カバーより
ベティ・エドワーズさん自体はどう考えているのか。書籍のカバーにこのような概要がありました。
「問題解決をうながす力であり、効果的な意思決定を導く力であり、人間の願望や知性のニューフロンティアを切りひらく力」がベティ・エドワーズさんにとっての創造性の概念のようです。彼女はこの本で「デッサンの力」を創造性とつなげる試みについて説明していますが今回は長くなってしまうので扱いません。
問題発見能力、それに対する問題解決能力。芸術だけではなく、学問の世界や経済の世界、およそあらゆる分野で重要とされる能力です。
アルバート・アインシュタインは「問題を解くよりも提起することのほうが重要だ(『物理学はいかにして創られたか』)」といったそうです。つまり「問題発見能力」のほうが「問題解決能力」よりも重要だということです。
問題発見能力と問題解決能力、独自性
芸術において「問題発見能力」ってなんだ?とまた路頭に迷った子羊のような感覚になります。「美」とはなにか?「醜」とはなにか?「愛」とはなにか?「世界」とはなにか?そういった提起を行い、では「どうやってそれを芸術として表現するのか?」という「問題発見能力」に行くということでしょうか。
それぞれ個人の関心によって何が重要な問題かが変わってきます。個人のそれまで生きた人生、備わった感性は他の人と全く同じだなんてありえません。そうした一人ひとりの関心において抽出された「問題発見」とそれに対応する「問題解決」が他の人と全く同じだなんてありえないと思いませんか。しかし似ていることは多いかもしれません。自分にとっての美とはなにかはそれまでその人が生きてきた経験に基づくものです。家庭環境、友人環境、何を学んできたか、なにを経験してきたかは明確に人それぞれ違います。金太郎飴ではないのです。実際問題として、そうした経験から「問題発見」へとつなげることのは確かに難しいです。しかし、言語化できないだけで、その人独自の感性というものがあるはずです。
美や愛といった抽象的なテーマだけではなく、「人を喜ばせるにはどうしたら良いか?」といった問題提起もアリかもしれません。そうした視点から考えれば、たとえはある人にとって「絵柄」は重要な要素ではないかもしれません。たんなる「手段」であり、奇抜さより「わかりやすさ」が重視されるかもしれません。ある人は「絵柄」よりも「ストーリー」を重視するかもしれません。逆もまたしかりです。あるいは両方かもしれません。
私が思うに、そういった問題提起と解決において、”独自性”ってそんなに重要じゃないと思うんですよね。独自性がなくても愛を表現できていればそれでいいし、人を喜ばせられたらそれでいいんじゃないかと思います。あまり「人と違うこと」ばかりに視点を当ててもしょうがないんじゃないかと思います。
問題が解決できそうなのに、「これはあの人がやったからだめだ」、「これは自分独自かわからないからだめだ」、「あの人と似てると言われたからダメだ」と挫折する必要はないと思います。
「その関係付け、おまえがオリジナルだと確信するのは良いが、過去のすべて、そして現在の全てを検証したのか?」
という悪魔の問いかけに対して、私は自分の信念に基づいて表現や行動ができているからそんな問いには屈しない!と胸を張って生きていきたいものです。
もちろん他人の表現物を丸パクリ、トレースしておいて、創造的だ!と威張るのはどうかと思います。しかし、自分が信念をもって「問題発見」をして「問題解決」を”自分なりに”精一杯やれば悪魔の問いには対峙できるのではないかと思います。結果として似ていてもさしたる問題ではないと思います。
創造は孤独か
問題発見や問題解決は”一人で”するものではないです。また一人ではできないです。すくなくとも私は思います。ときには友人や教授、まだ知らない人たちとさえ協力して行うものだと思います。一人で考えなければ意味がない、独自ではない、というのは息苦しい。先人たちの成果から学び、同時代の人からも学び、ともに刺激しあって相乗効果的に、螺旋のようにスパイラルして「新しいものを共に創り上げていく」ものだと思います。
完全な無から有を人間は創り出すことはできないのです。そんなに自分が自分が!、自分が独自に!、他のやつじゃなく自分が!俺の創作物をパクるな!これは俺が0から創り上げたんだ!と声高に叫ばなくてもいいのではないかと思います。叫ばなければ自分が経済的損失を被るじゃないか!という言い分ももっともです。しかし、そうした心の状況、態度はそのうち息が詰まりそうになってしまいそうです。「ほんとうにお前が0からつくったのか?過去及び現在において類似した作品がほんとうにないのか」という悪魔の問いに対してそういう人は対処できるでしょうか。
みんなで創っていこうよ!次の世代の糧になるようにしていこうよ!繋げようよ!という態度のほうが好きです。これは私の主観的な価値判断です。私にとって創造の前提はこのような「人との繋がり」にあります。ある意味ではそれが私の信念です。「悪魔の問い」が耳でささやかれようとも、「みんなで繋げていくからいいんだ、誰か一人の創造の刺激や素材になれればいいんだ!たとえそれが過去および現在で類似したものがあったとしても、それだけ意味があったんだ!」とドッシリかまえます。なんなら悪魔さん、君も一緒になにか創らないか?と勧誘しさえしそうです。
「創造?なにか方向や進歩があると勘違いしてるらしいが、ほんとうに芸術に進歩やら方向やらあるのかね?死んだら終わりじゃないのか?」
とまた悪魔がささやいてきそうです。「仮にそうだったとしても、みんなで繋げていくからいいんだ!この連帯感、存在の充実に主観的な意味がある」と返します。
「なに?愛だって?創造だって?憧憬だって?えっ星、そりゃあ、一体何のことですか?」とニーチェがいうような最後の人間種族のようになるかもしれません。「愛とはなにか、創造とはなにか」と問い詰められればそんなことはどうでもいい、連帯感や存在の充実があればいいという態度はまさにニーチェのような「最後の人間種族」に近いかもしれません。あまり深入りはしませんが、「いいじゃんそれで」と個人的に思ってます。真理があるかどうかはよくわからないけど、あると仮定して一緒に進んでいこうじゃないか。「よくわからないけど、生きるのは楽しい」という雑駁な生でいいじゃないかと思う。だいたいニーチェのような永遠回帰思想をもって超人的に生きるのは楽しそうではない。かといって最後の人間種族のように緩みすぎてもよくない。哲学の話はややこしいのでここらへんで今日は終わりたいと思います。
「これまでどんな人間に対しても、われわれほど四方八方へ目を向けることが許されたことはない。われわれは、どこもかしこも涯(は)てしなく見渡すことができる。だから、われわれは恐るべき広さの感覚をもっていると同時にまた恐るべき空漠の感覚をいだいており、その点で一頭地を抜いている。それで今世紀においては、並の能力以上の能力を持ったあらゆる人間の独創性は、まさにこの恐るべき荒涼の感覚に打ち克つことに向けて発揮された。荒涼の感覚に対立するものは熱狂(酩酊)である。…そこで、この時代は熱狂剤(麻酔剤)の発明においてはなはだ才気に富むものとなった。…われわれがこの自分たちのささやかな娯(たの)しみを記録し記帳する姿ときたらどうだろう。まるでそうした無数の小さな娯しみを集計することで、我々はあたかもあの宏漠(こうばく)たる空しさにたいする姑息な手段によって、自分自身を欺いてる様ときたら!」
カール・レーヴィット『ニーチェの哲学』62P~
感想のもとになった元スレ
https://souzoumatome.com/how-to-draw-body-ch/
今回おすすめする書籍
ベティ・エドワーズ「内なる創造性を引きだせ」
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