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【第一回】パターンランゲージとは何か?良い絵とは?クリストファー・アレグザンダーから考える
- 2021/10/6
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スティーブン・グラボーの「クリストファー・アレグザンダー」を読む
この本は不学の私にとってかなり理解が難しいので、言葉足らずな説明が多くなりますがご了承ください。なにかヒントになれば幸いです。まだ12章までしか読んでいません。機会があれば続編を書こうと思います。
引用が多く、レジュメに近い形式になり申し訳ありません。自分の言葉で全て説明したいのですが、そうすることで読者の理解の妨げになる恐れがあるので必ず説明の前に引用することにしています。それにしても素晴らしい本ですね。この本の読解のためだけに何年も消費しそうです。トーマス・クーンの「科学革命の構造」やマイケル・ポランニーの「暗黙知の次元」、モリス・バーマンの「デカルトからベイトソンへ」などもおすすめです。難解すぎて読破はできませんでしたが、ルーマンの「社会システム理論」にも同じような観点があるかもしれません。
感想
この本を読む目的
正直な話をすると、アレグザンダーの言っている内容の3割も理解できていないと思います。3割のうちの8割ぐらいもそのうち記憶から抜けていくのかもしれません。しかし残ったものが根付くよく、私の体のどこかに残っていくような気がしました。
人は本を読むときにさまざまな「目的」を持っていると思います。ただの暇つぶしかもしれませんし、技術を学ぶためかもしれませんし、試験勉強のためかもしれません。
今回私がこの本を読んだ理由は「よい絵とはなにか?」ということを断片的にでもいいから理解するためです。「美」や「創造」についても関連することが多かったです。もともとスレの感想のためのにこのサイトを作ったのですが、読み直す「きっかけ」となっているいますね。このサイトは「日誌」の体裁なので推敲があまりなくて申し訳ありません。気軽に記事を投稿し続けたいと思います。
大雑把な感想
本を通して大雑把に感じたことは、建築に良いとされるパターンがあるように、絵にも良いとされるパターンがあるのではないかということです。たとえばデッサンが不自然に崩れている場合、人はそれを美しいと感じにくいです。あるいは不自然な色の組み合わせは美しいと感じにくいです。やはり自然の美しさの要素と、絵を見て感じる美しさには共通するパターンがあるのではないかと思いました。たとえば美しいと思う鳥が不自然に足が長いと、とたんにその美しさを失ってしまうケースがあります。虹色の鳥が色を失い、黒塗りになってしまうと美しさが減ったと感じてしまうことがあります。
しかし人間には自然の中にあるパターンの組み合わせを超えた、新たなパターンを創り出せる能力をもっていると思います。あるいは自然のパターンをこのようなコンテクストで使えばさらに美しく見えるんだ!という応用性もあると思います。創造性と応用性、普遍性などさまざまな要素を考慮して「良い絵とはなにか」を考えると面白いと思いました。それと「色の塗り方」等もパターンのひとつのように思えてきました。つまり「創造法」のある一側面は、それぞれの目的(美にしろ醜にしろ楽にしろ金にしろ)に対して近づくための方法論であり、それはある種のパターン・ランゲージであるということです。
よい形とわるい形
彼はデザインの最終目的は形であり、デザインの問題は、形をコンテクストに適合させることだとしている。コンテクストとはこの形に要求を与える環境の一部である。自然界でもそうだが、よいデザインとはよい適合であり、形とコンテクストが摩擦なしに共存している状態なのだ。このようなデザインは、形や構造にめりはりがついていて把握しやすいため、はっきり区別できる。「よいデザインの家は、コンテクストにうまく適合しているだけでなく、コンテクストが何であるかがはっきりとわかるようになっている。」
53P
よい形はコンテクストに適合するだけでなく、形から立ち現れてくる生命感を明瞭にする。われわれは構造が豊かで全体的である時、この明瞭さを感じとる。しかし悪い形の場合、つまりその生命感に乏しく、静的で断片的だと感じるような不適合の場合はどうだろうか?『ノート』の時点でアレグザンダーは、よい形と悪い形の間の違いの原因は、形が脳の中で知覚され再現される過程と関係があり、同時に、全体的であると思われるものとそう思われないものの違いにも関係があると、直感していた。
認知研究センターでの研究成果として、アレグザンダーは一九五九年から六八年の間に雑誌に四つの論文を書いた。この成果は、ダイヤグラムが生成力をもつことから提起された問題と結びついており、あるまとまった空間の幾何学に関する彼の最近の仕事を予示している。この結びつきは、形の空間構造が頭脳の基本的な認知構造に関係があるという考えから生まれている。この頭脳の認知構造によって、別の構造が再構成されるのだ。つまり、ものの全体性と知覚との間には、関連がある。このような考え方は、結局、よい形と悪い形との区別は価値の問題ではなく、事実の問題であるという結論を導きだし、現代のパラダイムと対立する。
76P
随分抽象的な話ですが「よい形はコンテクストに適合するだけでなく、形から立ち現れてくる生命感を明瞭にする」らしいです。このことだけでは何を言っているかわからないので、用語を整理していきます。
コンテクストとは
コンテクスト(英:context)とは文脈、脈絡、前後関係や状況といった意味があります。アレグザンダーが使うコンテクストの意味は「形に要求を与える環境の一部」だそうです。デザイン論でよく語られる機能的な美とは違うんですよね。たとえばハサミのデザインは、よく切れるような形状が好ましいみたいなものです。この場合の「要求」は「よく切れること」です。そうした要求に適合するようなデザインが良いデザインだ、と機能的な観点からは語られます。
アレグザンダーはカール・マンハイム的な「機能性」を批判しています。「外生的なリアリティによってのみ形成され、本質的な方向性を欠くものであった(16P)」ともっています。
たとえばアレグザンダーは「390の要求条件」として、チケットブースのダイアグラムの例をあげています。チケット・ブースの周りで釣り銭をもらえるようにすること、順番待ちの行列が長くなりすぎないようにすること、チケットを勝った人が待っている人のそばを通っていけるようにすることなどです(60P)。こうした要求はおそらくコンテクストに関連していると思います。
しかしコンテクスト=要求ではないんですよね。「要求を与える環境の一部」です。それでは「環境」とはなんだという話になります。
環境の実体はものではなくパタンによって構成されていること、よいパタンと悪いパタンは客観的に区別できるということ、環境はパタン・ランゲージと呼ばれる一種の言語に似たシステムによって生成されるということ。それを複雑なシステムにうまく適用するためには、細部で無数の局所的な適合が必要となり、同時にそのプロセスで住民の参加が不可欠であること。その結果、正しく構成された環境には、美しいものに特有の明確な幾何学的特性が表れ、その形は客観的に定義できるということ。
20P
おそらくこれが「環境」についての説明です。ですがこれで理解できた方はおそらく相当賢い方なのだと思います。パタンとはお察しの通りパターン(pattern)です。一般的な意味では型、様式、図案、図形、模型等の意味があります。勝利のパターンがあるという言い方とかありますね。
環境の実体はものではなくパターンによって構成されているとはどういうことでしょうか。本では「私たちはものには名前をつけますが、関係にはあまり多くの名前をつけません(69p)」とありました。また、「たとえば原子は一般に『もの』と考えられていますが、実際には違います。同様に、ものよりもパタンのほうが基本的であり、パタンは単に現物の付加物なのではなく現実そのものだという考え方は、容易には受け入れがたいものなのです(69p)。」ともあります。
水素のもっとも一般的な同位元素であるプロチウムは、1つの陽子および1つの電子を持つ原子。安定している同位元素の中では、唯一中性子をまったく持っていないのが特徴である。
これは水素です。1つの陽子および1つの電子を持つ原子らしいです。たしか原子は原子核と電子によって構成されています。現在ではさらに細かい構成単位である素粒子というものもあるとかないとか。原子の中には原子核と電子が電磁相互作用(クーロン力)によってむすびついているらしいです。また、原子核は陽子と中性子から構成され、その”組み合わせ(パターン)”に応じて3000から6000種類の原子があるそうです。
すこし理系的な話に傾いてしまいましたが、要するに原子=物としてではなく、原子=構成物の組み合わせ(パターン)として考えることができるという話です。アレグザンダーによれば「もの」はパターンの集合につけた簡便的なレッテルにすぎないそうです。レッテルとは「人や物に対して一方的・断定的に評価をつける」などといった意味で使われます。
レンジはオーブンとスイッチなどの関係によって成立しているのだし、そのスイッチも人間の手で回せる部分との電気的接触の関係によって成立しているのです。結局これらの全体的本質はパタンでできていて、『もの』は私たちがパタンの集合につけた簡便なレッテルにすぎないのです。
69P
たとえば「電子レンジ」は「物」ではなく「パターン」だといいます。たしかに電子レンジも原子と同じように、さまざまなな構成物の組み合わせでてきています。アレグザンダーによれば「人間」との関係もそこには含まれるわけです。電子レンジをデザインする際に人間との関係も考慮しないといけませんし、部屋の大きさとの関係に合うかといったことも考えなければいけません。
そう考えれば確かに、「環境の実体はものではなくパタンによって構成されていること」というのはなんとなくわかります。そして、コンテクストが環境の一部だというのもなんとなくわかります。
絵もよく考えてみれば物ではなく、パターンの集まりなのかもしれません。パターンの集まりに我々が区別に便利だから名前をつけてるのかもしれませんね。青と黄色からなる物だとか、線と線の関係からなる物だとか、パターンの集まりとして考えるとすこし違った側面が見えてきます。
パターン・ランゲージとは
「環境はパタン・ランゲージと呼ばれる一種の言語に似たシステムによって生成されるということ」を理解するのは難しいです。「パターン・ランゲージとはなにか」を簡潔に説明しなさいという筆記テストがあったとしたら、私は落第する自信があります。とはいえなにかしら説明する必要はありそうです。
「もの同士の関係の構造がデザイナーの優れた創造力からではなく、このような言語から生じるという考えは、建築家にとって不愉快きわまりないものです。彼らは、自分たちが建物や街やその一部を創造したのであり、それが彼らの豊富なイマジネーションのたまものであると思っているのです。しかし私たちは次のような理論を立てました。ルールにはシステムがあり、建築家はこのルールを実体化することによって構造をつくり出せる。この構造はルールに内包されているので、できあがった構造はそのバリエーションのひとつにすぎない。つまり支配するのはその内部構造そのものである。このような理論は、建築家の自我にとっては非常にショックなものです。最近では一般の人すら、建築家が環境を制御すると考えるようになってきています。つまり建築家が混沌とした状況に秩序を与えると考えられていますが、その秩序がルールのシステムから生まれた一バリエーションだとは想像だにしません。このことを理解するのは、一羽の鳥が遺伝子情報というルールからつくり出されるということを理解すると同様に難しい。人々はこれをなかなか信じようとしないのです。
70P
建築家は自分たちが建物や街を創造し、絵師はイラストを創造する。私はいままでそのように思っていました。そして豊富な想像力(創造力)によってそれがなしえたのだと。
しかしアレグザンダーいわく、そうした創造物は「言語」から生じるそうです。つまり「パターン・ランゲージ(関係の言語)」から生じるということです。たしかに人間もこまどりも遺伝システムのルールによって創造されているのでしょう。しかし同じように建築物が創造されているとはどういうことか、さっぱりわかりません。しかしルールがあるのはなんとなくわかります。たとえば冷蔵庫の隣に風呂場を設置したら不自然だろうとか、リビングにトイレは不自然だろう、とかそういうやってはいけないようなルールがあるのと同様に、風呂場の近くに洗濯機がある方が良いというような自然なルールというものがありそうです。そうしたルールを実体化することが建築家の役割であり、そうしたルールやシステムによって建築が行われているというのもなんとなくわかるような気がします。そして良いルールが何か?というのがパターンであり、それを言語化することがパターン・ランゲージなんだろう、とはなんとなくわかります。
「生成システム」とは「ルールの相互作用だけがものを作り出すというシステム(71P)」らしいです。ルールが生成力をもつとはどういうことなんでしょうか。そもそもルールとはなにか。生成システムの別の説明では、「パーツの組み立てキットのようなものである。ルールにしたがって組み合わせ、全体をつくる──つまり『もののある特定の全体的な性質に注目して、パーツ同士の相互作用を生み出す』のだ」とあります。
つまり「ルール」とは「もののある特定の全体的な性質」ということになります。
また別の説明では「まずひとつは、ものそのものというよりその関係、つまりパタンから環境がつくられるということ。そして言語に似た暗黙的システムで、その構造を決定するルールがつくられるということだ(68P)。」とありました。
環境を生成するルールがあり、環境の構造はそれをつくった人々が使っているランゲージから生まれるらしいです。
さっぱりわからない。ルールは日本語でいうと「規則」です。規則とは「物事のきまり」です。たとえばデザインにはある種の法則性があるそうです。つまりパターンがあるのです。美しいと思えるような建築物にはなにかパターンがある、という言い方をすればいいのかもしれません。そうしたパターンを言語(ランゲージ)化しようとしたのがアレグザンダーの取り組みです。「創造物がパターン・ランゲージから生じる」という意味がほんのすこしだけ理解できました。創造物が生成される過程にはなんらかのルールがあり、ルールは相互作用をしているということもすこし分かったような気もします。相互作用とは「 互いに働きかけ、影響を及ぼすこと」です。
建物が生活を囲む外皮であるだけでなく、そのなかで行われる生活そのものであるという考え方は、環境がものではなくパタンからなっているという考え方と一致する。同時に既成のパラダイムを粉砕する考え方でもある。というのは、建築とユーザーの間で小さな局所的適応が無数におこなあれていることが環境の正しい適応なのだという結論を、論理的に導き出すことになるからである。それは、たとえばプレハブ、標準化、モジュラー・コーディネーションといった近代建築であることの証を排除することであった。
83P
これもポイントだと思います。物はパターンからなり、環境もパターンからなっているんですね。また適応がユーザーとの間で行われるというのもポイントだと思います。家に実際に住む人がユーザーですね。
「絵」でいうとどうでしょうか。商業的な絵の場合も、実際に人が見るわけですから人も環境の一部になりますし、人との適応も問題になります。漫画の場合も同じようにストーリー的な環境がたくさんあります。環境に適応した絵というものがある程度パターンから構成され、また適切なパターンから構成されていたほうが美しく、生き生きとしているというのはある程度は真実味を感じます。
アレグザンダーの言葉は「全体的」だとか「生命感」だとか抽象的でいまいち理解できませんが、言葉にできない美があるのはたしかです。文脈にフィットするような絵や建物というのは確かにあるように思えます。そうした美にどうやってアクセスするのか?という観点から、パターン・ランゲージを使うということなんだろうと思います。
「生気に満ち生き生きとしていると感じることは、空間の現象学的側面を捉えているという発見──これがすなわちブレイクスルーであった(94P)」ともあります。これも抽象的ですが、感覚的にはなんとなくわかります。「個人性を越境して普遍性へと参与する(120P)」という言葉が「現象学的側面」ですね。美とは何か?について「人それぞれ」が「個人性」だとすれば、「なにか共通したものがある」というものが「普遍性」です。
生気に満ち生き生きとしてるというのは、ある種の美の普遍性なのではないかと思います。どういうデザインがそのような生気をもつのか?実際に生気を感じる絵を分析し、パターンを見つけ出そうというのも面白いと感じます(これがなかなか難しいのですが)。この本ではパターン・ランゲージの例があまり出てきません。パターン・ランゲージの具体例を見たい方は後で紹介するアレグザンダー自身の本を読んだほうがいいかと思います。
デザインの生成過程
『力の集合から形の生成へ』というエッセイの中で、アレグザンダーは、デザインの生成過程を砂にできる風紋に例えている。吹き飛ばされた砂の性質に着目すると、波紋を形作る力の相互作用には五つのルールが有り、それによってどのように波形が生成されるかを説明する。「平らな面に風が吹いているとき、この面を壊すような力が発生する。したがって平らな砂の表面は不安定な形だと言える。一方、波紋の形はその形を保存するような力を発生させる。つまり自己保存的であるゆえに安定している」ここで問題になっているプロセスは、システムの安定性を維持しようとする力の相互作用である。デザインの領域でこれに相当する問題は、与えられた要求にあった形をいかにして生成するのかというものである。「要求」という概念を実際の「力」という概念に置き換えることができさえすれば、空間における人間の欲求の相互作用を、自然界の形態生成と同じくらいの精度で、生成プロセスとして研究することができる。
77-78P
「ルール」の具体例が出ていますね。「空間における人間の欲求の相互作用を、自然界の形態生成と同じくらいの精度で、生成プロセスとして研究することができる」というのもポイントだと思います。建築ではさまざまな人間の欲求があります。動きやすさだったり、日当たりだったり、いろいろありますよね。だとすれば「絵」にも見る側からしたらさまざまな「要求」があると思います。
消費する側の人間はどういうものを絵に要求しているのでしょうか。そういう観点から「欲求の相互作用」を考えてみるといいかもしれません。
アレグザンダーにとっての「美」
現代のいわゆる客観主義の美学上の見解では、あるものが美しいのは、基本的には物質の形態的な特質に左右される。建築物の場合、内部でも生活には関係なく、それが外見上どのように見えるかということが問題になる。この見解がきわめて排他的であることは、雑誌や本に掲載される人の写っていない現代建築の写真を見れば明白である。しかし一方の主観主義者の見解も、満足のいくものではない。何かを美学的価値のあるものとしているのは、それ自身のもつ特性ではなく、それぞ見るものの個人的好みによるものであるという考えをとっているからだ。
この二律背反は、アレグザンダーの意見とは相いれないものだ。彼にとってものの美しさとは、外見のみにあるのではなく、その存在自体にあるのだ。
「私にとってものが美しいということは、単にそれがどのように見えるかということではありません。それがいかにあるかに関係するのです。つまり、そこで起こっているさまざまなできごとの間の関係をも含んでいかに『存在する』かということを問題にしているのです。われわれはあるものが透明体のように見通せるとき、それを単純に美しいと思ってしまう傾向があります。しかもそのように直感的に受けた印象を拡大解釈し、それをビルの外観についての感想であると思い込んでしまいます。しかしよく考えてみれば、その感想はビルを一瞥したときいふと思い浮かんだ第一印象にすぎないということがわかります。外見は人を欺くものです。たとえば競走馬を見たとき人は、その媚びるような美にみとれてしまい、全力で走っているときの朝顔のように開いた鼻孔には気づかないものです。確かに競走馬は醜いものではないでしょうが、かといって競走馬の絵に見られるような媚を含んだものでもないでしょう。これが人間の場合になるとそのようなことはありません。外見だけをとり繕った人間と、確固とした決意を心中に秘めた人間とを見分けることができます。つまり、内面の生活が重要だということです。私が『ものを美しくする』というとき、基本的にはこのことを言っているのです。」
84P
空間そのものと空間の知覚が全体的なまとまりをもったその瞬間、力の拮抗が局所的に消滅し、美が現れる。
116P
これは美学に関するアレグザンダーの考えです。近現代的な美に対する批判も込められています。かといって中世・古代的な美に戻ればいいというものではなく、いかにして乗り越えるかというのがポイントなのだと思います。絵が美しいのは単純に人間の顔の輪郭等が美しいからといった形態的な特質のみに左右されるのでしょうか。それとも、人の好みに左右されるのでしょうか。
「どのように見えるかではない、いかにあるかだ」なんていうと哲学的でモヤモヤしてきます。しかし「さまざまな出来事の関係を含んでいかに存在するか」というのもわかるような、わからないような気がします。外見だけではなく、内面も重要だなんて聞くと恋人を選ぶ基準のような発想ですね。しかしたしかに、人間の良さは外面だけではなく、内面にもあります。
二次元的な絵を見て、その内面性を見極めることができるでしょうか。絵に込められた内面性とは何でしょうか。アレグザンダーが別のところで言っている「名付け得ぬ質」や「生命感」や「全体性」とも関連してくるのだと思います。もやもやしますよねわかります。
よいデザイン
「よくデザインされた家は、コンテクストとよく適合するだけでなく、その問題をも照らし出す。」イー・フー・トゥアンも同様に、「もしうまく構造ができていれば、その構造を取り巻いているいのちをも明瞭にしてくれるだろう。」と書いている。これは既存のパラダイムで考えている「機能性」をはるかえに超えたレベルのものである。アレグザンダーは、力の対立を最小限に抑え空間に統一性を与えるような力のシステムだけでなく、いのちそのものにも言及する。そして美に関する問題の全体像は、あるものが生き生きと正規を帯びたものになるか否かの問題に深く根ざしている。美を笑顔に例えた彼の比喩を思い出していただきたい。「笑顔の基準には、個人の顔の造作はあまり重要ではない。」生き生きと生気を帯びていると感じる現象こそが重要であり、状況がありのままであることを決定づけているのである。冷たい思想とは無縁だ。彼の美に対する概念は、心の底から湧き上がるようなものなのだ。それは美学のカテゴリーを超えたもの、事物の「内容」や感情の「深淵」にかかわるものである。しかしいかにして人はそれぞ知るのであろう?
94P
これは近代的な美のかたちのひとつである「機能性」を乗り越えるという趣旨のデザインの説明ですね。「生き生きと生気を帯びていると感じている絵」はどのように描けるのでしょうか。もしそのようなものがあれば、よい絵だと感覚的に思うはずです。事物の「内容」や感情の「深淵」にかかわるものというのは繰り返し出てくる「生命感」、「名付け得ぬ質」、「全体性」と関係してくる言葉であり、ある種の言い換えです。暖かい思想であり、心の底から湧き上がるようなものです。抽象的な言葉ですが、なんとなくわかるような気がします。
「空間に統一性を与えるような力のシステム」というのはある程度具体的です。「状況がありのままであること」というのもある程度具体的です。しかしよくわからない。アレグザンダー自身も「生き生きと生気に満ちた状態こそが根本的だと思ったので、いったいどんな場合にそうなるのかを知るのが、重要になった(96P)」と言っています。つまりパターンをどうやって知るのか?というのが重要になったということですね。
「問題は、どうすれば私が発見したプロセスがその質の境地へとみちびくことができるかということでした(95P)」とあります。仮に「名付け得ぬ質」や「生命感」を感じるような絵があるとします。そこからパターンを分析して、「プロセス」を発見したとします。そのプロセスを使って自分が絵を描いても「生命感」を感じる絵にならなければ失敗になります。
「事実と価値」
「科学」に忠実であろうとすれば、事物の構造に本質的に結びついている共有可能なひとつの「価値」は存在し得ないという考えを受け入れるしかない。したがって、客観性のある単一の価値の代りに、価値は多様であるとか、本当は「事実」と「価値」が合体しているはずの世界に、その多様な価値のうちのひとつをあてはめる。
だがそれは不可能である。もし仮に、「価値」の概念規定とは、事物の構造と関連がなく恣意的で純粋に個人に属するものであり、個人の価値観はそれぞれ興味深く魅力的なものだと仮定しよう。たとえそう仮定したとしても、私たちがやっていることは個人の価値観をつなぎあわせ、それに理論などと名付けているだけだ。つまり、価値基準をもたない科学の構造の中で悪あがきをしていることには、変わりはない。
私自身はご承知のように、もともと数学者であった。六〇年代の初めの数年間、設計論を定義づけようと、やはり価値観を裏からそっと忍び入れるような科学の下で努力してきた。私もオペレーション・リサーチや線形プログラミングや数学や科学が提供してくれる知的ツールをもて遊びながら、デザインの目標と方法について、なんらかの観点を得られないものかと思っていた。
しかしながら、結局多様な価値観は根本的に非生産的であるとわかったのである。数学的にも科学的にも、「価値」と「事実」がひとつになった理論を発見することが必要不可欠であると気づいたのだ。この理論によって接ぎ木のような性質をもった中心価値の存在を確認するのである。それは『感情』を通してアプローチでき、自意識を取り去ったときにも近づくことができる。そして、その中心価値は「事実」と深く結びついている。それは「事実」と「価値」のように、ひとつで不可分である世界観を形成し、生産的な結果が得られるのである。
109-110P
これは個人的にかなり好きな内容です。
事実と価値とが乖離した近代にあって、我々の生は「意味」を──哲学的・宗教的に突き詰めたものとしての「意味」を──失ってしまった。そして、この意味喪失の根が十六・一七世紀の科学革命にあるというのが、わたしの論点である。そのことの必然的関係を解き明かすことが本書の試みである。
科学革命前夜まで、西洋の人々も驚きと魅惑に満ちた世界を生きていた。これを『魔法にかかった世界』(enchanted world)と表現してもいいだろう。醒めた意識が見据えるのとは異質の、不思議な生命力をたたえた世界への畏怖と共感。岩も木も川も雲もみな生き物として、人々をある種の安らぎのなかに包んでいた。前近代の宇宙は、何よりもまず帰属の場としてあったのである。人間は疎外された観察者ではなく、宇宙の一部として、宇宙のドラマに直接参加する存在だった。個人の運命と宇宙全体の運命とが分かちがたく結びつき、この結びつきが人生の隅々に意味を与えたのである。このような意識のあり方を「参加する意識」と呼ぶことにしよう。自分を包む環境世界と融合し同一化しようとする意識。この精神の全体性へ向かっていく方向を、西洋世界は見失って久しい。参加する意識の大いなる体系としては、のちに見る錬金術が、結局最後のものとなったのである。
「デカルトからベイトソンへ」、モリス・バーマン、国文社、14P
説明に入る前に、「デカルトからベイトソンへ」の文章を紹介します。ベイトソンとアレグザンダーの共通点がすこし見えてくるはずです。結局の所、近代的な美は「参加しない意識的な美」であり、マックス・ウェーバーの言葉で言えば「世界の魔術からの開放」的な美なのです。なんだオカルトか?と思うかもしれませんが、感覚的には理解できるはずです。
近現代的的なアートの槍玉に挙げられるマルセル・デュシャンの「泉」です。このトイレに「生命感」を感じるでしょうか。「全体性」や「名付け得ぬ質」、「微笑み」や「暖かさ」、「参加する意識」を感じるでしょうか。こういったアートに対して、美は人それぞれだから、これもひとつのかたちという言い方もできます。しかしアレグザンダーはそうした主観的で多様的な美ではなく、また客観的な美でもない、普遍的な美があるのでは?という発想なわけです。
普遍的な美の言い換えとして、「生命感、全体性、名付け得ぬ質、暖かさ、参加する意識」等々があるわけです。
アレグザンダーの「『事実と『価値』がひとつになった理論を発見することが必要不可欠であると気づいたのだ」というのはある種の「再魔術化」です。ただ中世や古代に戻ればいいというものではなく、違った方法で参加する意識を取り戻そうという話ですね。
・ベイトソンのパラダイムの最大の利点は、「事実」を犠牲にすることなく「価値」を取り込んでいるという点である。
・ベイトソンの著作においては、<精神>が従来の宗教的コンテクストから開放され、現実の世界における具体的・動的な科学的要素(プロセス)であることが明らかにされている。したがって、ベイトソンにおいても「参加」は存在しているが、それはもはや元来のアニミズム的な意味での「参加」ではない。
316P
・サイバネティックス的説明の核心にあるのは、関係こそ現実の本質であるという考え方である。デカルト的パラダイムにおいてはまったく無視されているこの考え方が、原初的思考にすでに先取りされていることは注目して良い。伝統的文化は、トーテミズムや自然崇拝などの慣習を通して、循環性というサイバネティックスの概念を直感的に把握していた。それによって環境を維持し保護することができたのだ。我々もまた、ベイトソンのモデルに基づいて我々のまわりにあるさまざまな下位<精神>の相互関係に思いをめぐらせば、エリー湖の汚染も防ぎうるだろう。湖の汚染からどんな連鎖反応が生じるか、一目瞭然になるはずだからだ。そうすれば、全面的に一体化(ミメーシス)に回帰せずとも、全体論に基づく正気の行動が可能になるだろう。ベイトソンの枠組みに従えば、原初的意識のように関係の網のなかに単に没入するのでなく、関係の網に心を集中することができる。その結果、原初的な知、特に<精神>をめぐる知が美的意識という形でよみがえり、技巧的(芸術的)な科学(世界についての知)を我々は手にすることができるのではないだろうか。一体化と分析の両方を手に入れ、それらが「ふたつの文化」の分裂を生むのではなく、たがいに補強しあうようにならないだろうか。人間は環境と(環境だけではなく、人間がかかわり合うすべてのものと)一体化的な関係を持ってはじめて、現実に対する真の洞察が得られるのであり、そうやって得た洞察が分析的理解の中心となるのである。こうして事実と価値が合体する。<精神>とは価値であると同時に分析の一つの方法であることが明らかになるのだ。
320P
「デカルトからベイトソンへ」、モリス・バーマン、国文社、14P
ここでベイトソンの話をもってくるとすこし話がややこしくなりますが、その共通性は考察に値すると思うのですこしだけ紹介しておきます。関係(パターン)や全体性、事実と価値の一致、美的意識、そして科学等々共通するものが多いです。「我々が何かを知ることができるのは、そのコンテクストのなか、すなわちその中にかと他のものとの関係の中においてのみである(289P)」というサイバネティックス理論の説明と、アレグザンダーの「ものと関係」の説明は重なります。ベイトソンによればコンテクストとは「出来事や関係がその中で生じる、ひとまとまりの諸ルール(418P)」だそうです。
「名付けえぬ質」と「全体性」
そのアイデアとは、「環境の構造はオーバーラップし相互に作用し合うルールに由来し、ルールは環境の見られるパタン間の関係を表している。そしてまた、それらが適切に適応している場合には、構造の全体的知覚とも一致する」ということであった。構造の全体的知覚とは、空間における特定の質と同値であったのだ。それが「名付け得ぬ質」である。そしてこの質は、現れるときはいつも同じなので、パタン・ランゲージを完成させる作業の「リトマス試験紙」として役に立った。特に、パタンのコレクションの幅を広げること、パタンを結合して生成力のある構造を作ることを説明するのに役立った。
「私は、この質とかかわりをもつことのできるパタンでなければ見る気がしなくなっていました。相当の数のパタンを調査してきたのですが、そのときにも質のないパタン、つまりいのちや精神性を生成できそうにないものは捨てていったのです。」
97P
「(・・・)どの場合よりもものの本質がより現れる場合があると主張することが、すなわち質を語ることなのです。そのとき、そのものは、それ自身に即しています。この質を語るための方法とは、たとえば、私が努力してきたことのようなものです。言葉の問題はともかく、私たちは、この質の存在がよく現れる場合と、そうでない場合とについて語ることができます。たとえば、礼拝用の絨毯の場合、普通のカーペットと比べて、とても美しく精神的でさえある場合があります。それは、自然がある場合に一瞬だけおのれの姿を垣間見せるときとよく似ています。科学はこの事実を扱っていません。ですから科学の範疇で語ったとしても、それを単なる『できごと(イベント)』ではなく、日常からかけ離れた『超できごと(メタイベント)』だとするのです。それは今までの科学とは様相を異にするのです。もしそれが科学の範疇に入ったら、それは科学の『拡大』になるでしょう。」
112P
これは適当に検索したトルコ絨毯(出典)です。
こちらはどこにでもありそうな絨毯の絵柄です。
たしかにトルコ絨毯のほうが美しいような、質があるような、生命感があるような、気がしないでもないような・・・。「自然がある場合に一瞬だけおのれの姿を垣間見せるときとよく似ています」とあるように、なんとなくそうかもしれないなという感覚はわかるような気がします。ですが直感的に理解できますが、なにかパターンとして言語化しようとすると難しい。
他にもベイトソンは唐招提寺の柱列の例を上げています。「たとえばフランク・ロイド・ライトの住宅のドローイングや、デンマークの小道、あるいは日本の小寺。たとえば京都の東福寺はきわめて洗練されていて、自然環境からの連続体のように感じられる。アレグザンダーも、『まるで誰かが埋もれていた自然の核心に手を触れ、そのまま何かを地上に持ち上げるようにして建物をつくってくれたかのようだ』と感想を述べている。しかしこのような特質の実体は、建築物だけにあるものではない。アレグザンダーにとってそれはリアリティの本質的な特性であって建築はその表現のひとつでしかない。その期限は建築以外にあり、それは人がこの特質を人生に生かしていくプロセスとかかわりがある。それゆえに、アレグザンダーはこの特性の重要性を主張するのだ。アレグザンダーにとって、この特質は客観的であると同時に、個人の経験にも依拠している。それはサルトルのような実存主義の哲学的対比とも通じるものだ(91-92P)」
引用しすぎて怒られないか不安になってきました。しかし言おうとしていることはなんとなくわかります。しかし、客観的であると同時に主観的でもあるというのはなかなか理解が難しい。弁証法的な理解というか、主客を統合する力がなにかあるのかもしれない。あるいは「複雑性」的なものなのかもしれない。
パターン・ランゲージの具体例
正直セミラティス構造というものがいまいちわかりませんでした(上の図)が、重なり合うというのはなんとなくわかりました。「パタン・ランゲージ – 環境設計の手引」が高すぎるので実際に買って引用できなくてすいません。というより引用の引用になってもうしわけありません。
しかし手元の本ではパターン・ランゲージのわかりやすい具体例がなかったので助かります。「浅い棚」というパターン名だそうです。
たとえば「ステージとしての階段」というパタンは、階段とそれが配される部屋との相互関係、階段付近の壁と窓の位置、手すりと手すり子、階段の踏みづらさと蹴り上げ、などについて伸べている。「階段を降りていくる人が途中から室内の活動に参加できるように、階段の下段を張り出し、開口部、手すり、広い踏板などを設ける。」これは単に階段の下段部分で「ステージ」を形成するための構成要素の位置関係を述べたものにすぎない。しかし実際にはこれと同じような一定不平の声質を持った階段はいくらでもある。このパタンからつくられる階段は、それを取り囲むより大きなパタンと、それに組み込まれたより小さなパタンの特性によって規定される。このため、どんなパタンを使うにしろ、現実に照らし合わせてある特性を決定する際には、選択の余地は多分に残される。
・・・
パタンの柔軟性はランゲージのもつシークエンス構造によって保証されている。「各パタンはランゲージの上位にある特定の『より大きな』パタンと、下位にある特定の『より小さな』パタに結びついている。ひとつのパタンは『上位』にある大きなパタンの感性を助け、また自らは『下位』にある小さなパタンの助けを借りて完成するのである。」このパターンのシークエンスに従えば、初期の決定が無効になるほどの大幅な変更はなくなる。それどころかパタンを積み重ねていくにしたがって、変更はますます軽微になるのである。しかし、ひとつずつパタンを積み上げてデザインを組み立てるためには、そのプロセスはできるだけ「柔軟」でなければならない
143-144P
おそらくこれも具体例の一つです。
建築以外のパターン・ランゲージとしてこのようなものがありましたので紹介しておきます。建築分野での形式、それ以外での形式等々あるみたいですね。良い絵にはどんなパターンがあるか?というのを集団で共有し、パターンを作成するのは面白そうです。アレグザンダーも建築設計において「住民の参加」や「共同してつくること」に重きをおいていたので、一人ではなく複数人で作るというのもポイントなのかもしれません。
これはパターン・ランゲージを創る側の視点でもあり、使う側からしたら一人でもいい場合はありそうですね。漫画の場合もひとりではなく、編集社やアシスタントとの対話によっても作成されている面がありますよね。
検索するとこのようにわかりやすい説明がありました。コンテクストとは「状況」なんですね。パターンランゲージとは「創造の秘訣についての共通言語」ですか。どのような状況のときに、どのような問題が生じやすく、それをどのように解決すれば良いのか?がポイントですね。
たとえば「自分の絵はなぜかよくない」という状況を考えてみます。「色の組み合わせが悪いのではないか?」という問題を発見してみます。どういう色の組わせなら良いのか?と解決方法を考えてみます。その過程でパターンが分かってくるということでしょうか。たとえば自然の鳥はなぜ美しいのか?と問題を発見し、こうこうこうだから美しいのだと問題を解決してみたとします。
その問題解決のパターンを人間の服にも応用できないか?と当てはめるということも可能ではないでしょうか。パターンがあればなんでも自動的に生成されると言うより、どういうパターンに当てはめるのか、どういうパターンを発見するかという創造性も重視されそうです。
このスライドにはこんな例がありました。「鳥の眼や虫の眼」を行き来することによって解決できる場合のあるのではないか?ということなんだと思います。
うーん。たしかにそうなんだろうとは思います。そういう発想のパターンで問題が解決できる場合もあるのだと思います。こういうパターンをたくさん見つけて、だれかと共有することで熟練者の問題解決の形式を初心者も使えるというメリットが有るのもわかります。
しかしなんだろう。アレグザンダーの「生命感」、「全体性」、「事実と価値の合致」、「名付け得ぬ質」だとかそういう美意識とはすこしズレて、かなり世俗的というかそういう感じが否めません。自分で問題を考えて、解決しましょう、解決方法をみんなで探しましょう、みんなで解決しましょう、共有しましょう!という発想は素晴らしいです。アレグザンダーの主張を噛み砕いて応用すると「学びのパターン」のようになるのかもしれませんね。「美のパターン」というように別の題材を設定すれば、そうしたものに合わせた解決方法も出てくるのかもしれません。
「名付け得ぬ質」というのがあいも変わらずよくわかっていません。抽象的にはわかるのですが、いまいち理解しにくいですね。「有機的秩序」と名付け得ぬ質を表現している箇所もありました。
個人と非個人性をつなぐ
アレグザンダーの場合、問題設定が抽象から具体にまたがっていることはすでにみてきた。つまり、感情と空間の両領域をつなぐこと──ポランニーのいう主観性と客観性の橋渡しをすること──である。
117-118P
「私の性向についてはあまり話してきませんでしたが、それは単なる一側面にすぎないからです。私は特殊な人間ではなく、平凡などこにでもいるような人間だと思っているのです。でも、このような価値基準をもっていて、それ以外には受け付けないという点では、変わっているのだろうなとは思いますよ。」
これは明らかにポランニーのいう「個人性を越境して普遍性へと参与する」と一致する。
120P
これは現代美術の行き過ぎた個人主義、個性、独創性に対するある種の警鐘かもしれませんね。美とはなにか?という議論で普遍性へとむかうものが美だという意見もよく見ます。しかし感情と空間の両領域をつなぐのは一体どうやって?という話になり、それはパターン・ランゲージによってとなるのでしょうが、理解が難しい。感情と空間がつながったと思えるような(直感や経験を含む)パターンを積み重ねて、修正して、それをやり続けてやっとある程度の「普遍性」が見えてくるか、見えてこないかという話なのでしょうか。現象学もどこかそういう話だったので、近い部分がありますねたしかに。
現象学については昔すこし学びましたので一応リンクをはっておきます。
絵を描くことについての不安
子供でさえ絵を描けるのですから、誰もが絵を描けるはずです。しかしたいていは、冷笑にさらされるのではないかという恐れがあるために萎縮してしまい、なんとか別の方法でことを運ぼうと懸命になります。そして逆に、この不安を上手く使って人を操ろうとします。たとえばライト風、コルビジェ風、ミース風、あるいは流行の某風といった具合にです。それによって自分の能力に幻想を抱くわけです。
『当って砕けろだ。とにかくつくってみよう!』と言えるまでこの不安を克服すること。それは恐れを操作している人たちから得た空疎なイメージのものをつくる代わりに、私が話してきたようなフィーリングをもつものをつくることに対する不安を克服することと似ています。
124P
日本古来の武道や芸道はいずれも、何かをなし遂げるにはまず死の恐怖に直面しなければならないと教えています。水墨画であっても、華道であっても同様です。もちろん剣の達人になるためには、死の恐怖を克服することは必須です。しかし、他のことでも同様に、それが自由自在に行えるようになるには、同じような境地に達する必要があります。当然、私たちがこれまで綿入にしてきたことにもあてはまります。なぜなら、軽蔑されるのではという不安、自分をさらけ出すことの不安について真剣に考え、不安の連鎖をたどっていくと結局、死の不安に行き着くからです。たとえば、もしあなたが軽蔑され、知っごとを失ったら、おちぶれ果てた余生を失意のうちに過ごすことになるからでしょう。そのような想像は何通りもできます。そのため軽蔑されることに対して過敏になります。そのようなくだらない考えは捨てて、ちょっと考えてみれば、恐れることをやめてどんなことにでもあたらなければ、不安は払拭できないことがわかるはずです。
126P
「・・・まず第一に、建物が微笑んでいるときに何が起こっているのかを正確に把握する理論を見つけ出そうとしても、ただ純粋な理論からでは発展しないことがわかったからです。ものを作り出す愛情や天性が、私を正しい方向へと導いてくれます。これまで出版した本の中では、この天性や愛情についてはほとんどかいてきませんでしたが、ほんとうの意味で私の理論に形や力を与えたのは、天性や愛情だったのです。もの作りという行為から縁遠い人が、もの作りのほんとうの意味が把握できるかどうか、はなはだ疑問です。・・・」
132-133P
これは絵を描くにあたっての精神論として役立ちそうです。たしかに自分の絵が嗤(わら)われたり、バカにされるという不安をもったことがある人は多いのではないでしょうか。そういうときには武士のような精神性をもつといいのかもしれません。「武士道とは死ぬことと見つけたり」とは江戸中期に書かれた『葉隠』にある武士としての心得の一文です。
原文
二つ〳〵の場にて、早く死ぬ方に片付ばかり也。別に子細なし。胸すわつて進む也。(中略)二つ〳〵の場にて、図に当たるやうにする事は及ばざる事也。我人、生る方がすき也。多分すきの方に理が付べし。若図に迦れて生たらば、腰ぬけ也。此境危ふき也。図に迦れて死たらば、気違にて恥にはならず、是は武道の丈夫也。毎朝毎夕、改めては死々、常住死身に成て居る時は、武道に自由を得、一生落度なく、家職を仕課すべき也。
現代語訳
どちらにしようかという場面では、早く死ぬ方を選ぶしかない。何も考えず、腹を据えて進み出るのだ。(中略)そのような場で、図に当たるように行動することは難しいことだ。私も含めて人間は、生きる方が好きだ。おそらく好きな方に理由がつくだろう。(しかし)図にはずれて生き延びたら腰抜けである。この境界が危ないのだ。図にはずれて死んでも、それは気違だというだけで、恥にはならない。これが武道の根幹である。毎朝毎夕、いつも死ぬつもりで行動し、いつも死身になっていれば、武道に自由を得、一生落度なく家職をまっとうすることができるのである。
『葉隠』は武士達に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生きて抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張しているのであり、あくまでも武士の教訓(心構え)を説いたものであった[4]。
「武士達に死を要求しているのではなく、武士として恥をかかずに生きて抜くために、死ぬ覚悟が不可欠と主張している」というのがポイントなんですね。絵を描くにも恥をかかないで生きていくために死ぬ覚悟が不可欠なのかもしれません。かりに冷笑されたとしても死ぬ覚悟さえ出来ていれば生き抜けるはずです。そういう自信をもつためにはやはり自分の絵がどこか普遍性に触れている、生命感がある、名付け得ぬ質がある、有機的、全体的といった性質があるといいのかもしれません。
感想となった元スレ
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