【感想】そもそも萌え絵とはなにか?

感想

この記事の感想です

https://souzoumatome.com/dessin-for-moe-picture-ch/

不学な私は今回も「萌え」についての定義を勉強しなくてはなりません。曖昧模糊とした「萌え」について正確に説明しろと言われたら、それは難しいです。

今回はWikipedia教授をお呼びして概略を説明していただきましょう。それではWikipedia教授、よろしくお願いします。

萌えの定義について

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ただ今ご紹介にあずかりました、Wikipediaです。今回はよろしくお願いします。

 

さっそくですが、「萌え」とはどういう意味ですか。「かわいい」くらいにしか思っていませんでした。
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「萌え」の起源については諸説あり、明らかになってはいないようです。キャラクターの名前の「萌」という説だったり、「燃え燃え」という説だったり、いろいろあるようです。「萌え」の意味、概念についても同様で諸説あります。

 

諸説あるのはわかりました。大雑把でいいので使われている意味を教えてくれますか。
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「萌え」は対象(主として登場人物)への好意・恋慕(れんぼ)・傾倒・執着・興奮等のある種の感情を表す言葉です。対象物に対する狭くて深い感情が「萌え」であるとすれば、広くて浅い感情が「好き」です。「心に春を感じる」といった語感でも用いられてるそうです。
はあ、そうなんですか。「恋慕」という言葉が出てきましたが、「萌え」と「恋」はなにか関係があるんですか。美少女キャラクターに恋心を抱いた場合に、それは「萌え」という感情に該当するということでいいのでしょうか。
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諸説あるので確定的な言い方はできませんが、「保護欲や庇護欲を伴った疑似恋愛的な好意や愛着、もしくは純粋な好意や愛着、フェティシズムや属性に関わる嗜好や傾倒など」を代表的な「萌えの感情」として定義することはできます。

 

はあ、疑似恋愛ですか。たしかに二次元のキャラクターと三次元の人間のように実際に恋愛したり、結婚したりすることは難しいですね。そういう意味で疑似恋愛なんですね。
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最近では「二次元のキャラクター」以外にも、「三次元のアイドル」や無機物、音楽にまで「萌え」を使う場合もあるそうです。「魅力を感じた場合」に萌えを使うパターンも有るとかないとか。

 

たしかにアイドルと実際に付き合えるパターンは少ないですね。そういう意味でアニメと同じように擬似要素となりうるんですかね。魅力ですか・・・そうなると萌えの対象や意味がかなり広範になってしまいますね。ところで「萌え」と「エロ」は何か関連があるんですか。疑似恋愛というくらいだから、「エロ」要素もあるかと思いますが。
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「萌え」と純粋なエロティシズムの間には決定的な差異があると考えられている、という意見があります。軽い性的要素を含んだものは「萌え」として歓迎されるが、性的な要素が濃厚すぎるものは「萌え」の範疇から外れるという意見があります。

 

なるほど。となると、アダルトビデオに萌えは持ち込まれにくいんですかね。Wikipedia先生はそういうの見るんですか
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出典に挙げられれば、ソースの明確性を確認するために全てチェックします。

 

はあ、そうなんですか。以上でインタビューを終わりたいと思います。
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「萌え」議論について浅学

インタビューで終わらせるべきだったのかもしれない、が興味深いので少し触れたいと思います。

精神科医の斎藤環さんの「萌え論」とそれに反対する批評家の東浩紀さんの「萌え論」、さらにそれに反対する評論家の本田透さんの「萌え論」等面白い文章がWIKIにはありました。しかし内容は浅学な私にはスッと理解できるものではなかった。

精神科医の斎藤環は、おたくが用いる「萌え」という言葉を、「芸風」として戯画的に対象化されたセクシャリティであると位置づけた[19]。斎藤は、おたくの創作物が倒錯した性のイメージで満たされながらも、おたくの間では現実の性倒錯者が少数であると指摘し[19]、おたくのセクシャリティを、虚構のリアリティを支える、虚構それ自体が欲望の対象となり現実を必要としないものであるとしてその背景を論じた[29]。

批評家の東浩紀は自著においてこうした斎藤の主張を「あまりに複雑」と一蹴した[30]。東は「萌える」ことを、キャラクターを無数の萌え要素へと分解し、各要素の背後にあるデータベースを消費することであると位置づけ[注 1]、単純な感情移入とは異なると論じている[31]。東はおたくの消費行動を閉じた関係の中で欲求を満足する「動物化」みなし、斎藤が論じた「萌え」の構造を、関係性から切り離されたデータベースの中で、記号化された萌え要素に対して性的興奮を得るという、動物的に慣らされた行為でしかないとして単純化した[32]。

一方、評論家の本田透は「萌え」を「記号に発情する、動物化された行為」とみなす解釈に異を唱え、そうした解釈で「萌え」の本質を見い出すことはできないと主張した[33]。本田は「萌え」を、宗教が否定され恋愛もまた物質主義に支配されていく中で必然的に生じた、記号の背後に理想を見い出す行為であるとし、神話や宗教の文脈に連なる精神活動として解釈した[34]。その上で本田は、むしろ動物化しているのは、バブル期以降に台頭してきて現実の恋愛やセックスを商品のように消費する人々であると主張し[33]、「萌え」は現実の恋愛を狩猟行為や勝ち負けのように解釈する風潮や、男性上位のマッチョイズムに対するアンチテーゼであるとした[35]。なお斎藤は「萌え」と暴力的な性倒錯を区別せず、ヘンリー・ダーガーの作品などにも絡めながら、戦闘美少女の文脈の中で「萌え」を語っているが[36]、本田は「鬼畜系」と呼ばれる狩猟的な性関係を描いた作品群を、「萌え」とは対極に位置するものとして区別して扱っている[37]。

萌え

なるほどさっぱりわからない。実に面白い。

加藤 「萌え」についてぜひ伺いたいのですが、実は「萌え」というのが私にはよくわからないんです。「萌え」というのは、素敵とかかわいいということとは違うんですか?
斎藤 もう少し恋愛観に近いものがありますね

(・・略・・・)

斎藤 わかりませんか? それは教育が必要ですね(笑)。まず、入門編として『風と木の詩』(1970年代に発表された竹宮恵子によるBL漫画の原点的作品)あたりから読んでじっくりと学習していくと、入り口が開いてくると思います。女性の8割はしっかり教育すると、立派な「腐女子」になると言われていますから、BLを理解するのはそんなに難しくないと思います。フィクションだろうが実在だろうが、この男子とこの男子が恋仲にあるに違いないという架空の設定をするわけです。そういう視線で見ると、表情とか目が合ったとかいちいち物語付けができ、それを解釈して楽しむというのが、腐女子の萌えの一番典型的な楽しみ方ですね。

(・・略・・・)

斎藤 男性一般で考えると、「萌え」に最も近い感情を実在の女性にもつことは無理なんです。だから、二次元の萌えがいかに独特かと言うときに、「所詮、三次元は二次元に敵わない」と半分ギャグで言ったりするわけです。ところが、三次元である猫への萌えの感情だけは誰も否定しない。猫についてはアニメやマンガの美少女に対する気持ちと変わらないところがあるんだということが、共通認識になっているということです。ネット世界の中には猫好きがとても多いんです。男性も多いですね。

猫は「萌え」の感情をかき立てる唯一の三次元なのです。

一度戯画なんちゃらの話を離れよう。わかりやすいものを見つけた。内容は猫にも萌え要素があり、かつ二次元の萌えに対抗しうる唯一の三次元云々という話だった。犬じゃだめなんだろうか。それはおいておいて、「腐女子の萌え」という話が実に面白い。既存のキャラクターに「架空の設定」を設けて、解釈で「萌え」るという作者を離れた萌えがあるのだと思った

この話は以前した、【感想】オリジナリティとは関係の付け方であるとも連なる話だと思う。「架空の設定」を設けるというのは創造の概念とも近い気がする。それと、やはり私がざっくりと抱いていた感情である「萌え=かわいい」ではなく、やはり恋愛観に近いものが「萌え」だそうだ。

つまり、かわいい絵を描いたからといって、それが萌え絵であるとは限らないということになる。読者が「架空の設定」を設けて萌えたり、読者の恋愛感性の琴線に触れたりと、やはり「受け手」も重要になってくるのだなと思った。しかしそれでもやはり、「萌え絵」の要素、記号みたいなものがざっくりと、最大公約数的なものがあるかもしれない。つまり、多くの人に萌えやすい絵というものはあるのだと思う。

斎藤環による「萌え」論

精神科医の斎藤環は、おたくが用いる「萌え」という言葉を、「芸風」として戯画的に対象化されたセクシャリティであると位置づけた[19]。斎藤は、おたくの創作物が倒錯した性のイメージで満たされながらも、おたくの間では現実の性倒錯者が少数であると指摘し[19]、おたくのセクシャリティを、虚構のリアリティを支える、虚構それ自体が欲望の対象となり現実を必要としないものであるとしてその背景を論じた[29]。

さて話を戻そう。

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「戯画」はおかしみのある絵、または戯れに書かれた絵のことです。落書き、風刺画、漫画、カリカチュアなどと重なる面が多く、これらと明確には区別し難しいです。

あ、ありがとうございます。まだいたんですね。つまり二次元な絵に対象化されたセクシュアリティってことですね。ちなみにセクシュアリティっていうのは、これまた広義ですが狭義の性行為だけでなく、性と欲望にかかわる人間の活動全般を指すらしいです。当然、恋愛も含まれますよね。

倒錯(とうさく)というのは、逆になること、社会や道徳にそむく行動をすることをさすようです。性的倒錯というと、「一般人の傾向から見て、いちじるしく逸脱していると思われる性行動の型」を指すそうです。サティズム、幼児愛、露出症、異常性欲うんぬんも性的倒錯の例だとか。おたくの創作物は「錯した性のイメージに満たされている」そうです。

たとえば大きすぎるおっぱいは、性的倒錯でしょうか。小さい女の子のキャラクターにのみ萌える人や、それを創作する人もいるかもしれません。その業界に明るくはありませんが、萌えと検索すればそういうものもでてきます。とくに同人誌にはその傾向が多いように思います。

しかしそいういう創作をする人が、現実世界、つまり三次元でも同じように小さい女の子や大きすぎるおっぱいが好きかというと、別問題なのかもしれません。陵辱や暴力的な要素が多い萌えのジャンルを創作する人であっても、たしかに「現実の性倒錯者が少数である」かもしれません。

「虚構それ自体が欲望の対象となり現実を必要としないものである」という斎藤環さんの説明も、わかったような、わからないような気がします。いやそれ二次元だから、嘘だから、フィクションだから、そういうフィクションだからこそ欲望の対象になるよね?そういうものをオタクは好きなんだ、現実は面倒だし醜いし傷つくよね、ってことですかね。

東浩紀による「萌え論」

批評家の東浩紀は自著においてこうした斎藤の主張を「あまりに複雑」と一蹴した[30]。東は「萌える」ことを、キャラクターを無数の萌え要素へと分解し、各要素の背後にあるデータベースを消費することであると位置づけ[注 1]、単純な感情移入とは異なると論じている[31]。東はおたくの消費行動を閉じた関係の中で欲求を満足する「動物化」みなし、斎藤が論じた「萌え」の構造を、関係性から切り離されたデータベースの中で、記号化された萌え要素に対して性的興奮を得るという、動物的に慣らされた行為でしかないとして単純化した[32]。

東浩紀さんのほうは、さらによくわかりません。データベースを消費ってなんだよ。

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データベース消費(データベースしょうひ)とは、物語そのものではなくその構成要素が消費の対象となるようなコンテンツの受容のされ方を指す。批評家の東浩紀がゼロ年代初頭に導入した概念。

まだいてくれたんですね。助かります。物語そのものではなく、その構成要素ですね。たとえば萌え絵キャラクターはどのような構成要素に分けられるんですかね。教えて下さいよWikipedia先生。

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デ・ジ・キャラットというキャラクターは「アホ毛」や「鈴」のような萌え要素の組み合わせによって成立しており、デ・ジ・キャラットは「萌え要素のデータベース」を消費するという形で受容されたことになる[14](萌え要素の組み合わせで構成されるという例はメジャーどころでもみられ、例えばアイドルグループミニモニ。の衣装などにも同じ議論が適用できる[15])。このように、自分の好む萌え要素という記号に対してあたかも薬物依存者のように脊髄反射的な反応を示すようになったオタクの変容を(あるいはより一般に他者の欲望を媒介することなく自己完結的な欲求充足回路しか持たなくなる変容を)東浩紀はアレクサンドル・コジェーヴの表現を借りて動物化[注 2]と呼んでいる[19]。デ・ジ・キャラットのほかにもびんちょうタンのように、データベース消費においては背景に物語を持つことなく誕生したキャラクターがあとづけで物語を持ったり二次創作の対象となることがあり、人間でないものをイメージ化して美少女をデザインする試みは萌え擬人化と呼ばれる[20]。2007年に発売された初音ミクも、それ自体は音声合成・DTMソフトのイメージキャラクターであり物語を持たないが、そのキャラクター性の高さゆえに多数の二次創作を引き起こし[21]、東浩紀自身もその消費のされ方を「データベース消費そのもの」と述べている[22]。

出典

なるほどね。ちなみにこれがデ・ジ・キャラットというキャラクターらしいです。初めて見ました。たしかになんというか、萌え絵っぽいなという印象があります。メイド服も記号のひとつなんですかね。幼児性も記号のひとつかもしれません。あるいは筋肉のなさもそうかもしれません。目の大きさもそうかもしれません。鼻がほとんどないこともそうかもしれません。WIKIにある通り、鈴やアホ毛も記号の一つかもしれません。

たしかに萌え絵を記号の要素の集まりと見る考えも、なるほどなといえます。しかしそれは「萌え絵」だけではなく、他の絵にもありそうなことです。他にも使えそうなアイデアですね。「自分の好む萌え要素という記号に対してあたかも薬物依存者のように脊髄反射的な反応を示すようになったオタクの変容」を東浩紀さんは「動物化」と言っていました。

動物と人間の違いは、私のイメージでは「理性」にあると思います。理性とは何だ、となりますが、「脊髄反射的ではなく、頭で一度考えること」という感じでしょうか。たとえば店に1万円札が落ちていたとします。人間は拾う前に、自分のポケットに入れるべきか、店員に届けるべきかを悩むはずです。脊髄反射的にポケットにいれたら、それは「動物化」ともいえるのではないでしょうか。野生の犬なら餌が落ちていれば脊髄反射的に食べるでしょう(おそらく)。

「動物化」することに問題があるのでしょうか。好き嫌いの問題ではないでしょうか。社会が悪い方向に進んでしまうなら、善悪の問題かもしれません。いずれにしても趣味の問題であり、他人がとやかくいうことではないと思います。昔はこうだった、今はこのように商品が消費されているという客観的な分析ですよね。東浩紀さん個人としてはどういう方向にすすむべきかの指針でも本で書いてるんですかね。

ところでWikipedia先生、データベースについての説明をお願いします。

 

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大塚は『物語消費論』で、ビックリマンシールやシルバニアファミリーなどの商品を例に挙げ、それらは商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」(世界観や設定に相当するもの)が消費されているのだと指摘し、主に1980年代にみられるこういった消費形態を物語消費と呼んだ。ここで「大きな物語(世界観・設定)」という意味で「物語」という語句を使うことは紛らわしいことから世界観消費といいかえられることもある[2][注 1]。

東はこれを踏まえ、物語消費論でいうところの「大きな物語(世界観)」が「大きな非物語(情報の集積)」に置き換わり、その文化圏内で共有されるより大きな「データベース」を消費の対象とする形態をデータベース消費と名づけ、特に日本の1990年代後半以降のオタク系文化において顕著にみられるとした。

これらの消費形態はポストモダンの到来と密接に関わっている。実際、オタク系文化とポストモダン社会は、次のような点で共通点があると考えられる。まず第一に、思想家のジャン・ボードリヤールによればポストモダン社会では作品・商品の原作と模倣の区別が困難になり、中間的なシミュラークルという形態が主流になるとされるが、これはオタク文化での原作との区別の曖昧な二次創作・メディアミックス展開といったものと符合する。第二に、哲学者のジャン=フランソワ・リオタールによればポストモダンとは大きな物語(社会全体に共有される規範)が凋落して多数の小さな物語(小さな範囲内でのみ共有される規範)が林立した状態になることで条件付けられるが、これはオタクが現実社会より虚構世界を重視して別の価値規範をつくりあげていることに対応する[4]。

物語消費では、失われた大きな物語を補うべく作品背後の世界観という擬似的な大きな物語が捏造されたが(部分的なポストモダン)、データベース消費では捏造すらも放棄される(全面的なポストモダン)[5]。そして(全面的な)ポストモダン以降のオタク文化においては、個人の解釈の仕方によって多様に変化するデータベース(情報の集積)へアクセスすることによって、そこからさまざまな設定を引き出して原作や二次創作(オリジナルとコピーの見分けのつかないシミュラークル)が多数生み出されるという。

 

ああ、もうコピペなんですね。面倒なんですね喋るの。ああカタカナいっぱいだぁ・・。データベースっていうのは、日本語で言うところの「情報の集積」なんですね。「データベース消費」という言葉があるように、この「萌え論」は創作者ではなく「受け手」がメインなんですね。創作物がどのように消費されるかについての議論なわけです。

例としてガンダムが挙げられています。ガンダムは宇宙世紀などの架空の歴史をファンが熱心に精査したそうです。作品世界に没入するという消費の仕方ですね。ビックリマンシールもそういう消費だそうです。たしかにシールの絵そのものではなく、どういう文脈でそのキャラクターが登場したのか、背後にある「物語」が重要になってそうです。こういうのを「物語消費」というそうです。商品そのものが消費されるのではなく、それを通じて背後にある「大きな物語」が消費されているというのが大塚英志の指摘だそうです。

そうした「物語消費」から「データベース消費」に変わってきているというのが東浩紀の主張です。1990年代移行だそうです。「萌え」の流行と重なりますね。デ・ジ・キャラットは背景に物語をもつことがなく登場したのに、アニメ化・ゲーム化などがされて「後付けで物語化」されたそうです。さきほど「鈴」や「アホ毛」が萌えの記号の要素だといいましたが、こういった要素はデータベース化されているらしいです。どこにって?それは、なんというか、文化ですかね。いや特定の範囲のなにかですかね。オタク界隈というざっくりな区分でいいのかわかりませんが、そういう小さな範囲なのでしょう。オタク界隈の中にも小さな範囲がたくさんあるのだと思います。腐女子界隈、美少女界隈、初音ミク界隈云々と分けることは可能でしょうか。

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これに対してエヴァンゲリオンのファンは、作品世界に没入するのではなく、登場するヒロインを題材にした同人誌(二次創作)や登場するメカニックのフィギュアの製作などに熱中する傾向にあり、そこでは世界観よりもキャラクターやメカニックといった情報の集積(大きな非物語)が必要とされていることになる。評論家の前島賢によれば、エヴァンゲリオンの前半では、(物語消費に適した)作品の世界観につながる伏線と思われる多数の意味ありげなキーワード(人類補完計画・S2機関など)が提示されたにもかかわらず、終盤ではその正体・真相がほとんど明かされないまま作品は結末を迎えており、それによって視聴者は物語消費という受容態度の変更を余儀なくされたのだという[12]。1995年を境とするこの消費様式の変化(いわゆる「キャラ萌え」への転換)はメーカー主導型からユーザー主導型への転換ともいえるものであり、その背景にはオタクの学生が(物語を好む)文系から(システムを好む)工学系の学生に転換したことが考えられる[13]。

エヴァンゲリオンは「物語消費」よりも「データベース消費」的だそうです。わかるような、わからないような。エヴァンゲリオンちゃんと見たことないんですよね。ただフィギュアや同人誌が多いイメージはあるような気もします。「世界観よりもキャラクターやメカニックといった情報の集積(大きな非物語)が必要とされている」というのがポイントなんでしょうね。

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庵野秀明原作(放送当時はGAINAX原作)・監督によるSFアニメ作品。大災害「セカンドインパクト」が起きた世界(2015年)を舞台に、巨大な汎用人型決戦兵器「エヴァンゲリオン」のパイロットとなった14歳の少年少女たちと、第3新東京市に襲来する謎の敵「使徒」との戦いを描く。

「使徒との戦い」というのは大きな物語なんですかね。使徒というえばキリスト教を思い出します。全人類がどうなるか、使徒とはなにものか、といった物語よりも、綾波レイとはなにものか?初号機の色は何色か?といったような「情報」のほうに関心が集まったということでしょうか。

WIKIには「消費様式の変化(いわゆる「キャラ萌え」への転換」とありましたが、これも「萌え論」にとっては重要な部分なんでしょうね。物語消費から、「キャラ萌え」への転換というのは面白いです。文系から工学系へ、メーカー主導型からユーザー主導型へなどさまざまな言い方がされています。

物語よりも、キャラクターが可愛いか、ロボットがかっこいいか、ロボットはどういうシステムなのかといった個別具体的な情報、あるいは記号に関心や消費が移ったということでしょうか。こうした記号の脊髄反射的な消費(データベース消費)を東浩紀さんは「動物化」と形容したということでよろしいですか。他にも「キャラクターの自律化」という話も出ていましたが、先程の「腐女子の萌え解釈」とも関連してそうですね。

一方、評論家の本田透は「萌え」を「記号に発情する、動物化された行為」とみなす解釈に異を唱え、そうした解釈で「萌え」の本質を見い出すことはできないと主張した[33]。本田は「萌え」を、宗教が否定され恋愛もまた物質主義に支配されていく中で必然的に生じた、記号の背後に理想を見い出す行為であるとし、神話や宗教の文脈に連なる精神活動として解釈した[34]。その上で本田は、むしろ動物化しているのは、バブル期以降に台頭してきて現実の恋愛やセックスを商品のように消費する人々であると主張し[33]、「萌え」は現実の恋愛を狩猟行為や勝ち負けのように解釈する風潮や、男性上位のマッチョイズムに対するアンチテーゼであるとした[35]。なお斎藤は「萌え」と暴力的な性倒錯を区別せず、ヘンリー・ダーガーの作品などにも絡めながら、戦闘美少女の文脈の中で「萌え」を語っているが[36]、本田は「鬼畜系」と呼ばれる狩猟的な性関係を描いた作品群を、「萌え」とは対極に位置するものとして区別して扱っている[37]。

さて最後に、本田透に少し触れておく必要がありそうですね。「萌え」と”暴力的”な性倒錯を区別するかしないかで揉めているんですね。定義の問題なんで、正直あまり興味がないです。

興味があるのは「動物化すること」が悪であるかです。魂の救済として芸術は成り立つものなんでしょうか。マックス・ウェーバーならノンといいそうです。いやナインか。もちろんエロスの領域にもノンといいそうです。それぞれ疑似救済、各個人好きに、受けての問題として勝手やればよろしい、それは趣味の問題だと。ただ人には押し付けるなよと。まるで真理であり客観的な救済のように語るなよと。

ただ倫理的な善悪となると話はまた違ってくるのかもしれません。「動物化」によって社会全体が無法地帯化してしまうなら、それを趣味の問題で片付けることは難しいでしょう。「宗教が否定され恋愛もまた物質主義に支配されていく」ことは善悪の問題なのか、それはすこし私には荷が重いテーマなので触れないでおきます。

このへんで今日は終わりにします。

今回紹介する書籍

東浩紀「動物化するポストモダン」


動物化するポストモダン オタクから見た日本社会 (講談社現代新書)

斎藤環「『性愛』格差論―萌えとモテの間で (中公新書ラクレ)」


「性愛」格差論―萌えとモテの間で (中公新書ラクレ)

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