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【前編】創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか
- 2024/6/16
- クリストファー・アレグザンダー
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Contents
- 1 はじめに
- 2 不健全な世界観
- 2.1 「それってあなたの感想ですよね」
- 2.2 「笑み」のような美
- 2.3 機械論的世界観とは
- 2.4 ルネ・デカルトの思考法
- 2.5 世界から精神と価値が締め出された
- 2.6 「機械論的秩序」
- 2.7 アレグザンダーによる『パターン・ランゲージ』の失敗
- 2.7.1 (1)『知覚と寸法体系』(1959)
- 2.7.2 (2) 『視覚上の美意識に関する考察結果』(1960)
- 2.7.3 (3)『形の合成に関するノート』(1963)
- 2.7.4 (4)『都市はツリーではない』(1965)
- 2.7.5 (5)『サブシンメトリー』(1968)
- 2.7.6 (6)『パターン・ランゲージ』(1977)
- 2.7.7 (7)『時を超えた建築』(1979)
- 2.7.8 (8)『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』,全4巻(2002~2005)
- 2.7.9 パターン・ランゲージの定義について
- 2.7.10 アレグザンダーにとって「デザイン」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.11 アレグザンダーにとって「コンテクスト」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.12 アレグザンダーにとって「形」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.13 アレグザンダーにとって「ニーズ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.14 アレグザンダーにとって「コンフリクト」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.15 アレグザンダーは機能主義者だった
- 2.7.16 アレグザンダーにとって「デザインプロセス」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.17 アレグザンダーにとって「ツリー構造」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.18 デザインプロセスの2つの問題
- 2.7.19 アレグザンダーにとって「セミラティス構造」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.20 アレグザンダーにとって「パターン」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.21 アレグザンダーにとって「ランゲージ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
- 2.7.22 「モノよりも関係(パターン)のほうが基本的」であるとは
- 2.7.23 パターン・ランゲージはカスケード状である
- 2.7.24 パターン・ランゲージの問題(失敗点)
- 3 参考文献リスト
はじめに
動画での説明
・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください。
よろしければサイト維持のためにチャンネル登録をよろしくお願いしますm(_ _)mモチベになっていますm(_ _)m
パターン・ランゲージに関するディスコードサーバーを作りましたのでよろしければご参加下さい!
前回の記事
他のカテゴリーは創造法編集社のほうで扱い、こちらのサイト(創造日誌)では「美学」に関するもののみを扱っていきたいと思います。
前提の記事はこちらになります。
今回は記事を3つにわけました。
次回の記事はこちらになります。
【中編】創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか
クリストファー・アレグザンダー(1936-2022)のプロフィール
ウィーン生まれ。大工、職人、工務店経営者、建築家、絵描きなどさまざまな仕事を行っている。1963年から20002年までカリフォルニア大学バークレー校の建築学科教授として勤務してしていた。
「彼の建築は、そこに集う人々が生き生きとした生命を感じられる場をつくることが目的である。深い信念のもと、そのような健康で生命に満ちた環境としての建築をつくるためのアイデアと実践の研究を続け、実際にまちに住み込み、実践してきた。近隣コミュニティ、複合建築、建築材料、施工、手すり、柱、天井、窓、タイル、装飾、原寸模型、絵画、家具、彫刻=これらすべてが、彼の情熱の源泉となり、パラダイムシフトの原理をうみ出す試金石となっている。」
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,481p
この記事をより理解するために必要な基礎文献
クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』
クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』
クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』
クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』
坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』
坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』
スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』
スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』
【お知らせ】discordでパターンランゲージに関するサーバーを作りました
よろしかったらご参加くださいm(_ _)m
discord serverのURL:https://discord.gg/3VHF9SS4fV (テスト段階です)
不健全な世界観
「それってあなたの感想ですよね」
美は単なる感想に過ぎないものか
現代の我々の世界観において、「美」は個人的なもの、恣意的なもの、主観的、趣味的なものであると一般に見なされている。
あるものを美しいと思う人もいれば、思わない人もいるというような「人それぞれ」の問題であり、「単なる意見」の領域の問題であると考えられている。
例えばピカソが美しいかどうか、砕ける波が美しいかどうか、人それぞれであり、そうしたものに絶対的真理、事実などないと思われている。
あるいはそうしたものが事実であるように語ることはどこか不遜(思い上がり)か信仰だと思われている。要するに、レバーが美味しいかどうかと同列的に思われているのである。
2022年に、日本では「それって、あなたの感想ですよね」というフレーズが小学生の流行語ランキングに入ったそうだ。
このフレーズは「価値の問題」と「事実の問題」を明確に区別し、特定の議論においては「事実の問題」のみが優先されるべきだ、というようなニュアンスだと私は考えている。ものすごくざっくりいえば、「単なる個人の価値観に基づいた主張にすぎないものを事実であるように開陳する人物を馬鹿にするフレーズ」である。いわゆる「論破」のような、勝敗が重要な優劣関係の場、コンテクスト(文脈)において「反撃」として繰り出される事が多い。
具体例
極端な例として「私はなんとなく、死刑制度は美しくないと感じるから反対だ」という主張は「あなたの感想」にすぎず、重視されるべきではないと考えられている。制度の維持費用や犯罪の抑止効果など、「目に見える統計データ」のような事実、機能、仕組み(メカニズム)を重視すべきだ、という趣旨になる。
「気候変動のような大きな問題は楽しく、かっこ良く、セクシーであるべきだ」という某政治家の発言に対して多くの人が反感をもったのと、すこし似ている。求められているのはあなたの「価値」の発言ではなく「事実」であり、事実に基づいた建設的、現実的、実際的な客観的主張なのだと。
単なる感想が妥当性をもつコンテクスト
このように話を聞くと「それって、あなたの感想ですよね」は特定のコンテクストでは妥当性をもつようにも考えられる。他方で、芸術というコンテクストでは「それって、あなたの感想ですよね。ですが、それでいいと思います」というような「多元論的価値観(みんなちがって、みんないい)」が妥当性を持つように考えられている。
このように、主観が妥当性(説得力)をもつコンテクストともたないコンテクストがあるといえる。
つまり、価値は特定のコンテクストでのみ「許容される対象」に過ぎず、かつそれはどのコンテクストでも「単なる意見にすぎない」と考えられがちなのである。
神を信じるかどうかも「あなたの意見」であり、富士山が美しいと感じるかどうかも「あなたの意見」である。宗教と芸術が同列的に「価値判断」としてまとめられる。
「生産性」という社会的条件
生産性を上げざるをえないというコンテクストのため、またそのために事実を過剰に強調せざるをえないという視点、社会的条件も理解する必要がある。
たとえば防衛の議論で事実をベースに語ることは合理的で、安全性を高めることになり、それらは「生産性」へとつながっていく。
このようにしてひたすら事実を重視する傾向が強化され、固定されていく。「単なる好き嫌いで事実を重視しているというわけではない」という点も重要であり、社会的条件も関連しているのである。
社会学でも経験的調査が重視される傾向がますます進んできているように思える。哲学における分析哲学(論理実証主義)などもその傾向がある。要するに、「科学的態度」が重視されるコンテクストに我々は置かれているのである。
人は仮面を使い分けられるほど器用な存在ではない
アレグザンダーによれば、政治や経済のような議論だけではなく、建築業界のような「芸術の領域」でも科学的態度の勢いが強くなってきているという。この話は、アドラーの動画で扱った「人は仮面を使い分けられるほど器用な存在ではない」という話を思い出す。芸術以外の顔はやがて芸術にも顔を出すのである。
また、「美は表面的なものであり、ぜいたく品であると一般的に考えられるようになり、個人の趣味・趣向の問題にすぎない」と考えられ、「討論」すらまともにされていないらしい。
芸術の領域では皆それぞれある程度自由に、独自の美をこしらえて製作しているのかもしれない。しかし彼らの殆どは美は「主観的」であり、「私個人の意見の表現」と思っているのではないだろうか。
むしろ、そうした単なる意見としての「独自性」をひたすら過剰に重視している傾向すらあるかもしれない。それが普遍的である、つまり「普通」であると「自分の価値」が低いと思う人すらいる。独自性がないとそもそも著作権として認められず、評価されず、また利益にもつながらない。そうした社会的条件とセットになり、「創造性」を「独自性」としてこだわっていく。客観的・普遍的であり、真理だと主張すること、討論することは「不遜(思い上がり)」あるいはナンセンス(無意味)だと思っているのではないだろうか。
もし美に対する意見が人それぞれだとしても、実際に美しい建物が建てられていればいいのではないかと感じる。
・とくに参考にしたページ
キーワード:美は個人の趣向、趣味、個人的なものにすぎないのか、討論
スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,27p
アレグザンダーが考える「醜さ」について
しかしアレグザンダーからすると近代では「醜い建築物」ばかりが建てられているという。汚れた手袋で作業しているとキャンバスが汚れるように、大きなクラスが汚れているとメンバーも汚れやすくなるのだろう。アドラーでいえば「ライフスタイル」自体が不健全だと、行動も不健全になるイメージである。建築以外のギャラリーアート(絵画、彫刻、写真、インスタレーションアート、ビデオアートなどの総称)でも同様だという。
「独自性」を重視しすぎたために、あまり美しいとは思えないような「モダンアート」が大量に登場したこととも関係しているのかもしれない。
画像の出典(パブリックドメイン)
マルセル・デュシャン(1887 – 1968)の『泉』などはその例だろう。これは「磁器の男性用小便器に自分の名前を描いた作品」である。細かい意図は置いておいたとしても、私にはこれが「美」であるとは思えない。しかし当時は「変わっている、独自的だ、大胆な発想だ」と称賛が送られたのだろう。近現代のアートにはどこか、こうした風潮がある。彼らも内心では「不健全」だと感じつつも、私の感情はただの「意見」であり、みんなが褒めてるから、儲かればいい、これが流行だからと乗っていたのかもしれない。
ミルウォーキー美術館の写真の出典(クリエイティブ・コモンズ)
たとえば上の写真は、アレグザンダーが「怪物のような建物」と表現しているエーロ・サーリネンによる作品である。
下の写真はバックミンスター・フラーによるジオデシック・ドームである。これらの作品をどう思うだろうか。
アレグザンダーは近代建築における「醜さ」をさまざまな言葉で表現している。
例:ナルシスティック、観賞用、のっぺり、質がない、ぎこちない、偽物、退屈、納得のいかない、冷たい、不安、落着かなさ、抽象的、非人間的、機械的、穏やかさに欠ける、心に届くものがない、粗暴な反復、面白味がない、化け物じみている、やみくもに形式的、反自然主義、単純化しすぎ、などなど。
・とくに参考にしたページ
キーワード:建築が醜い現状について
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,23p
キーワード:エーロ・サーリネンの建築を「怪物のような建物」と表現した箇所
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,14p
「美しさって必要不可欠な機能ですか」
ここでもあのフレーズが登場しそうである。
「それって、あなたの感想ですよね」とアレグザンダーに向けられるのだろう。醜いかどうか、「あなたの個人的な価値基準」で測って決めつけているだけですよね。統計などはあるんですか、と。そもそも人間が生きてくうえで「美しさって必要不可欠な機能ですか」と。
感想を言い換えれば「単なる意見」であり、「単なる主観」であり、「単なる価値」である。たとえばケーキにデコレーション(装飾)がなくても「食べたら同じ」というようなイメージとなってしまう。
あったらあったでいいけれども、なくてもわれわれはかまわないとどこかで思っている。だからこそ保存食のような冷たい、四角い「完全食」のほうが合理的だと考えてそれしか食べない人も出てくるわけだ。
アレグザンダーならこう言い返すだろう。
「これって、意見でもあり事実でもあるんだよ」と。
科学的態度に染まった現代の私たちのほとんどはこの言い返しをこれ単体ではほとんど理解できないだろう。何を言っているかさっぱりわからない。私も最初に聞いた時に理解できなかったが、今ではかろうじて「なんとなく言いたいことは感じる」レベルになっている。理解するためには社会学や哲学の基礎を学ぶ必要があった。
事実と価値の統合という主題
「事実と価値の統合という主題を理解することが人類全体の幸福へつながるのか」という点が、創造発見学で扱う重要な問いとなる。
ケーキの装飾に対する認識はたんなるメンバーである。メンバーの上位のクラス、その上のクラスといったように考えていくと、より大きなクラスやメンバーを抱え持つものであり、広範な領域に影響を与えることになる。
大切な恋人にたいしてもこのケーキのような認識が生じていないと、どうして言い切れるのか。我々は「物事全般にたいする特定の認識」を探る必要がある。
決して小さな問題ではないことに気づいてくる。水にインクを垂らすと一箇所だけが独立してきれいに汚れることがなく、その全体に影響を及ぼすことと似ている。
しかも「目に見えない変化」=「無意識の変化」も広がって生じているし、また日々強化されているのである。もはや汚れた水がないと満足できないようなイメージである(まさに依存だ)。そして、簡単には綺麗にできないという点が重要になる。アルコール依存症に「健康」を語ったところで、あるいはなぜアルコールがよくないかという「不健康」を語ったところで改善しにくいのと同じである。
抽象的にいえば「そうしなければ辛いから依存している」のである。そもそもアルコールに依存させないような社会を作る必要があるのと似ている。
「笑み」のような美
美のイメージ
さきほど「醜い」ものの表現を羅列した。
では、アレグザンダーは美をどのように表現しているのか。
POINT美のイメージ:自己放下させる、いのちあるもの、質がある、本物、ソフト、、生命力がある、生きている本当の人生、生き生きと生気に満ちた状態、笑顔、心の底から湧き上がる、安心、安らいでいる、落ち着く居場所がある、深い心地よさ、深い境地、深い存在感をもたらすような秩序がある、感動させ、心の琴線に触れる、調和のとれた一体感、偉大で豊かな、普遍的、自然主義、深い感情、などなど。
このように羅列したところで、それらは抽象的であり、「単なる意見(価値の問題)」と言われても仕方がない。問題は「何が」それらを生じさせるかというプロセスと構造、仕組みである(事実の問題)。
とはいえ、どこか「良いものだ」、「健康的だ」、「幸せに繋がりそうだ」という印象は受ける。よくわからないけれども、そう感じる。つまり、事実としてどういうプロセスで美が生じているのかをうまく説明できないけれども、よさそうだと感じるのである。
富士山を見ると美しいと思い、特定の異性を好きだと思うその「理由」を上手く説明できないことに似ている。アレグザンダーが「単なる意見」以上のものを理論的に、説得力のある形で提示できるかどうかがキーポイントとなる。我々がどこか「神秘的」と思っている「何か」である。
科学的な美の見解と、アレグザンダーの美の見解の違い
POINT科学的な美の見解:「思考すべき対象」ではない。「認知行為の過程で精神が提供する性質のひとつ」にすぎない。「客観的世界のリアルな特性」ではなく、「主観的、恣意的な特性」である。
POINTアレグザンダーの美の見解:「人の顔に浮かぶ『笑み』」のようなもの。心が開き、くつろぐような気持ちになるもの。なごむようなもの。宇宙の構造が融和するようなもの。素朴で率直で、同時に深みと神秘に満ちているもの。
・とくに参考にしたページ
キーワード:「恣意性」、「主観性」
スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,110p
キーワード:「笑み」、「宇宙の構造が融和」
スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,29p
名付けえぬ質について
アレグザンダーはさまざまな美の形容詞をもつ「質」を、「名付けえぬ質(無名の質)」と呼んでいる。要するに、言語化できないような「何か」なのである。
これはグレゴリー・ベイトソンが学習Ⅲにおいて「東洋の禅僧も、西洋の神秘家も、一部の精神科医も、こうした事象を言葉ですくいとるのは不可能だと一様に主張する」と説明していた「何か」と通底するものがある。
アレグザンダーは名付けえぬ質を晩期にはなんとか「目に見える形」で定義づけようと試みている点が重要になる。
ベイトソンが「論理」によって、アレグザンダーが「幾何学的な特性」によって試みようとした点、どちらも客観的事実によって「何か」を語ろうとしている点が面白い(「考えるな、感じろ」ではなく「考えて、かつ感じろ」というイメージだろうか)。どちらも解脱の方向、自我の融解の方向にあることがもっと個人的には面白い。
機械論的世界観とは
基本用語の整理
価値の問題を「単なる意見」として重要視しないような科学的態度がいったいなぜ不健全なのか。あるいはそうした態度はどのような起源をもつのか。どのように我々に対して影響を与えているのか。認識論を改めるべきなのか。どうやって変えることができるのか。「美しい建築物が少なくなった」という単純な問題以上のことが起きているのか。
こうした問いは「世界観」や「パラダイム」といった「認識論」の問題と関わってくる。まずは基本用語から整理しよう。
POINT認識論(エピステモロジー、認識型):グレゴリー・ベイトソンによると「個々の生物または生物の集合体がいかにしてものごとを知るのか、考えるのか、決めるのかを考察するのか」という科学的な面と「知る過程、考える過程、決める過程に必然的な限界その他の特徴を考察する」という哲学的な側面にわけられる という。
POINT世界観:「私たちの、ものに対する考え方」のこと。特に、アレグザンダーは「秩序に対する考え方」が「ものに対する考え方」を規定すると考えた。
POINTパラダイム:ある専門家集団を統率する事実、価値観、理論、方法の総体。トーマス・クーンの概念。
たとえば科学者集団のパラダイム、建築家集団のパラダイムなど、「世界観」よりも範囲が特定的なイメージである。
世界観は特定の専門家集団だけではなく、日常生活においても広く影響を与えるイメージだと私は捉えている。両者は連続的であり、パラダイムの影響範囲が広がるにつれて、世界観という概念へと近づいていく。
特定の科学者の間で価値が軽視された時代であっても、他の多くの一般の人々の中では軽視されていないというケースを仮定することができる。
世界観と我々の行動はどのように関わっているのか
我々は「世界観」に影響を受けており、またほとんどの人は「特定の世界観」を持っていることに意識的ではないとアレグザンダーはいう。
アドラーでいえば「自分のライフスタイル」をさらに規定するような「世界のライフスタイル」とでもいうべきものだろう。ベイトソンの用語で言えば学習2になり、アドラーと同様に「幼少期」の頃に獲得され、固定化されていき、よっぽどのことがない限り大幅に変わることはないという(三つ子の魂百まで)。
その変化のためにアドラーは「勇気」を主張した。ベイトソンはどちらかといえば、そもそもそのような学習2が得られていく「過程」、「条件」を詳細に検討している印象がある。もちろんその過程でそれらの変革も検討される。
アレグザンダーは「芸術や建築の世界のトラブルの根源はものやこの世の本質に対する考え方が根本的に間違っていることにある、と私は信じています」という。
つまり、「世界観」が不健全だから、建築において「醜い物」が作られたり、生活において「不健全な人間関係」が構築されたり、「不幸」が生じたりするということになる。
特定のクラスが間違っているというより、クラスのクラスといったより上位の、それも「最上位」により近いクラス、世界観、コンテクストが間違っているという話である。
・とくに参考にしたページ
キーワード:世界観の不健全性
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,8p
世界観と社会的条件の関係
モリス・バーマンがいうように、「世界観」は特定の社会的条件のもとに、相互協力的に進展していくものである。
たとえばデカルトの思想は社会において人口が増えたり、国同士の交流が増えたりすることで「技術の発展」が必要とされるというような文脈において「受容」されていくものとしても考えることができる。
単に生活が豊かになるという社会的コンテクスト(文脈)だけではなく、その社会の存続をかけた殺し合いのコンテクストにおいて必要とされるようなイメージを含んでいる。
つまり、社会的条件と世界観はセットで考える必要がある。これは「健全な世界観が明らかになったからと言って受容されるとは限らない」という視点、コードにつながる。
たとえば美しい映画、小説、音楽、アニメ等々を見て「こんなふうな時間を、人生を過ごせたらいいな」と思う瞬間があるはずである。「しかし、現実には無理だな」というのが大半だろう。
クーンがいうようによっぽど差し迫った「危機」や「困難」が同時に必要だという視点も重要になる。「変わらなくてもいいか」という程度の不健全さでは惰性で、麻痺して、ゆっくり壊れていくのかもしれない。アルコール依存症の患者が、急性アルコール中毒で死にかけてやっと真剣に治そうとするのと似ている。
アレグザンダーは「たとえ無意識であっても、過剰に単純化された機械論的世界観にとらわれている限り、私たちと、私たちがつくり出す建築は暗黒の混乱の中にとどまり続けるほかない」という。
ではこうした機械論的世界観、つまり現代における「不健全な世界観」とはなんなのかを説明していく必要がある。この世界観を理解するためには、デカルトを掘り下げる必要がある。
機械論的世界観とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT機械論的世界観:一般に、自然現象や社会現象を機械のように理解し、理性的かつ論理的な法則に基づいて説明しようとする哲学的立場や方法論のこと。機械論的合理主義の世界観とも呼ばれる。
因果関係の重視、決定論、分析的アプローチ、機械のメタファーなどに特徴がある。ルネ・デカルト(1596-1650)の思想が起源として考えられている。
アレグザンダーの説明では「19世紀の物理学の世界観」と説明され、「あらゆる天地万物のメカニズムは盲目的であり、『自然の法則』のもと、ひたすらそれに従って営まれている、とするもの」である。おそらく、盲目的という表現派意図や目的を持たないというニュアンスだろう。
例えば有名な物理学の法則として「F=ma」というものがある。これは物体の運動を説明する法則であり、Fは力、mは質量、aは加速度を意味する。式をa=F/mとしてみると、mが小さいほどaは大きいということになる。たとえば質量が小さいボールに力を加えると、簡単に速く動く。質量が大きい岩に力を加えると、同じ力を加えても速く動かない。このように質量や力、加速度を把握してものがどのように動くかを把握していく。
もっと根本的な法則として、原子がどのように動くかという説明がある。
画像の出典:イラスト屋
あらゆる有機物・無機物は原子を持っている。それゆえに、原子がどのように動くかという因果関係、法則が把握できれば、ほとんどの物の動きを予測することができると考えていく。
もちろん、現代では量子力学やシステム論などのアプローチによって機械論的ではなく確率的、関係的に考えられることもあるこ点に注意する必要がある(こうした考えが科学の「主流」かどうか、多くの科学者集団に受け入れられているか私は詳しくない)。
ラプラスの悪魔とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
有名な仮定として「ラプラスの悪魔」というものがある。ラプラス(1749-1827)はフランスの物理学者である。
POINTラプラスの悪魔:ある瞬間におけるすべての原子と位置と運動量をすべて知ることができる存在を仮定すると、未来を完全に予測することができるという考えのこと。
この抽象化された概念を実体化させると、世界には精神というものがなく、あるのは物質だけという考えになるだろう。精神という曖昧な要素は予測に関与しないのである。
こうした考えは「決定論」とも呼ばれることがある。人間の「自由意思」や「目的」の軽視でもあり、また「神」や「美」といったものの軽視でもあるといえる。現代では不確定性原理などによって事情は少し変わってきているのかもしれないが、しかし根本的にはこのような思想が強いのではないだろうか。
アレグザンダーによれば、こうした機械論的考えは科学だけではなく、もっと大きなスケールの世界、気象、気候、農業、動物の生命、社会、経済、生態学、医療、政治、行政そして家庭生活までも及んでいるという。
もはや特定の集団のパラダイムではなく、現代社会の、とくに文明社会における多くの集団に共通する世界観になっている。すこし「デカルト」について掘り下げていこう。
ルネ・デカルトの思考法
ルネ・デカルト(1596-1650)はフランス生まれの哲学者であり、数学者。合理主義哲学の祖とも呼ばれることがある。「我思う、ゆえに我あり」という有名なフレーズで知られている。
原子論的アプローチとはなにか
デカルトの主要な主張である「原子論」と「二元論」を説明していく。
POINT原子論的アプローチ:ものを知るには、最小の単位に分けよという思考法。全体は部分の総和であり、それ以上でもそれ以下でもないという思考法。全体論的アプローチとは対照的である。
宇宙像は「物体と運動の二者からなるひとつの巨大な機械」として描かれており、神はその外をさまようだけであり、介入できない存在と見なされている(機械論的思考)。最初のスイッチを押してからは彷徨っているだけとはいえ、神が実在しているとデカルトが考えていた点は重要である。
何か説明できないような現象に直面しても、やがて原子論的アプローチによって「知られる」と信じられている(主知主義的思考)。例えば重力のような事象はデカルトの時代によく説明されていなかったが、ニュートンによって説明されるようになったことなどが言えるだろう。
二元論とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT二元論:一般に、世界や存在を二つの基本的な要素や原理に分けて説明する考え方のこと。デカルトではおもに主体と客体の分離、精神と体(物)、対象と思考者、見るものと見られるもの、自己と自然を明確に区別して、切り離して考える思想のこと。
POINT心身二元論(物心二元論):精神と体(物体)は別の存在、別のカテゴリーであるという思想のこと。
(1)精神の本質は「思考」にあり、具体的には認識、意思、感覚、感情、欲望などである。
体(物体)の本質は「空間的広がり(延長)」であり、具体的には形状、大きさ、重さ、運動である。
(2)世界は「精神」と「物体」によって成立し、またお互いに共通性のない実体であると考えられている。
(3)ではなぜ、人は自分の体を動かしたりできるのか。体が疲れていると気持ちも落ち込むのか。こうした「精神」と「物体」の関係を扱う問題がいわゆる「主客、あるいは物心一致問題」である。※体と体の違いは曖昧だが、一般的には体が精神を含むものとして使われているため、以降は「体」と表現することにする。
(4)デカルトは「精神」と「体」をつなぐものとして「松果体」をもちだしている。この松果体は脳の視床下部にあるといわれている。脳の一部なので、体の一部が精神をつなぐ役割を担っているというわけになる。この松果体を通じて、精神と体が一致するのであり、それゆえに体の影響は精神に影響を与えると説明したのである。
(5)「主体」と「客体」がなぜ一致するのかと言う問題に関して、デカルトは「神」をもちだしたという。「我思う、ゆえに我あり」の時点では「疑っている私や騙されている私」がここにいるということを確信できた。
主客一致問題のデカルト的解決
しかし、「私以外」について確信する方法をデカルトは上手く説明できなかったという。それゆえに、「私以外」、たとえば目の前の物や、私の体が本当に実在するかどうか、1+1=2であるかどうかは疑ったままになる。
そこで、神を持ち出すことで、「神が私を騙すことはない、私の理性や認識能力をいい加減なものとしてつくらない」という理由で「私以外のもの」とそれに対する「私の認識」を一致させようとしたのである。
これが主客一致問題のデカルト的解決である。
神の存在証明
当然、「なぜ神はいるのか」という疑問が生じるだろう。デカルトは「神の存在証明」によってそうした疑問を解消しようとした。
端的に言えば「不完全な私から完全な神という概念は生まれるはずがなく、したがって神は存在する」という論理である。どこかトンチのような感じがする。こうした主張への論理的、あるいは信仰的な反論はさまざまな方面でされているだろうから、省略する。
(6)主客および物心一致問題は現代哲学でも扱われている問題である。人間は主観の外側に出て客観を確かめられるのか、というテーマで現象学でも扱われていた。
哲学でも様々な立場があり、神をもちだして一致させたり、世界には物体しかないという唯物論、その反対に心しかないという唯心論が語られたりしている。あるいはそうした「問い」や「試み」自体が論理的に誤っていると考える立場もある。また、科学的に脳の仕組みを明らかにしようという試みもされている。
デカルトを考えるにあたってのポイントは、デカルトが「神の存在を信じていた」という点である。
アレグザンダーは「彼は宗教的な人間でしたので、20世紀の人々が『現実それ自体がこのようなものである』と考え始めたことを知ったならば、ゾッとしたことでしょう」とデカルトについて解釈している。
たとえばデカルトは人間を機械にたとえたり、物体を機械に例えたりする。しかしそれは「現実を理解するための道具、思考実験」にすぎないことをデカルトは明確に理解していたとアレグザンダーは解釈している。
日本人の多くが「神への信仰を単なる世界理解の方法の一つ」と考えるようなかたちで、「機械論的な思考も単なる方法のひとつ」だったのかもしれない。
しかし一方で、我々はどうだろうか。「それって、あなたの感想ですよね」に現れているように、「事実や因果関係」を過剰に重視する「機械論的世界観」にどっぷりとつかっているのではないだろうか。
もはや単なる道具ではなく、体に染み付いているのではないだろうか。デカルトの時代以降、ウェーバーが「脱魔術化」と表現したように、神への信仰がどんどん薄れていく時代、主知主義的合理化がどんどん進んでいく時代である。
ウェーバーによる「主知主義的合理化」の世界
POINT主知主義的合理化:可能性としてはすべてのことが知性で解明でき、それらに呪術的で神秘的な予測できない力が働いていないと信じ、原則上予測によってすべてのことが意のままになるということを知っている、あるいは信じていくようになること。マックス・ウェーバーの概念。「脱魔術化」とも呼ばれるものである。
POINT主知主義:可能性としてはなにごとでも知性で解明できるという信念であり、知性で解明できないような不合理なものは一切信じないという心の態度。
POINT合理化:意味適合性、計測性、可測性、可算性など、技術と予測が中心になっていくこと。予測や計算ができない非合理的なものは排斥され、予測や計算できるものが中心となっていく。対象へ即事物的(ザッハリッヒ)に接近していくこと。
われわれはたしかに、主知主義的合理化にどっぷりと浸かっているのかもしれない。それを意識しているかどうかはともかくそうなのかもしれない。
幽霊、聖霊、妖精、神の存在を真剣に信じている日本人は少ないだろう。そんなものは「作り話」であり、心霊現象などはいつか科学的に解明されると思っているのではないか。
幽霊や神といった極端に神秘的なものだけではなく、人を愛した時の感情や美しいと思った時の感情、なんとなく場が調和したと思えるような日々のあの感情は「単なる価値、感想、意見」として扱われ、それらもやがて因果関係によって、再現性があるものとして解明できると我々は思っているのではないか。
もしできないようなもの、あるいは生産性が低いものは無価値の烙印を押したり、趣味として隅に追いやっていくのではないか。
たとえば神という概念はある集団の統合力を高めるために人間がつくり出したという事実的(機能的)な説明や、ある神経の作用によって愛という感情は生じているだとかいう説明が可能になると信じている。
「単なる感想」を公共の場で話そうものなら、白い目で見られるかもしれない。西部邁さんがいうように、「なすべきことや、あるべきこと」について話すような場所自体が減ってきているのかもしれない。そうしたものは徹底的に忘却して抑え込んだほうが社会に適応できると思っているからだろう。その結果、将来どんな悲惨な事態に世界が向かったとしてもである。
プロテスタントたちが意図せずに「神なき資本主義の発展」に影響を与えたように、もしかしたらデカルトも意図せずに「神なき哲学の発展」に影響を与えたのかもしれない。そして我々の多くも意図せずに死んだ世界を発展させ、強化しているのかもしれない。
時代が進むにつれて、神が抜け落ちていき、残ったのは冷たい「機械論」である。そして重要な点は、プロテスタントたちが自分の作ったものをどんどん強化しなければ社会で生き残れないような競争状況に追いやられていったことである。こうした状況で、とにかく生産性を上げて利潤を出すことが重視されていくようになる。神からの救済の確信を得るため、という目的が抜けていき、ひたすら適応としてのシステムが強化されていく。そしてまた、その強化のための技術がどんどん生じていく。
ここで重要なのは神というより、「価値」が抜け落ちたという点である。価値は神よりも広い概念ではないだろうか。
神を信仰しない人も、「自分の感性」を大事にすることがあるだろう。たとえばある絵が美しいとおもう感性、ある政策がひどいとおもう感性がなんとなくあるだろう。具体的にはよく説明できないけれど、そうした「何か」、「質」のようなものがある。しかしそうした「何か」は「単なる意見」として科学的態度においては軽視されてしまうのである。あるいは「趣味」の問題として別の箱に入れられてしまう。あるいは学問では言語化できないものは曖昧であり、沈黙するしかないと言われてしまうかもしれない。学問はひたすら「事実」を扱うべきであり、「実益」が重要だと繰り返し突き返される。「そんな主観的な論文が就活で役に立つのか?」という意識が大学生にもあるでしょう。
アレグザンダーは「17~20世紀にかけて、人々は世界に関するほとんどすべてのものを機械的に把握するという思考に慣れ、20世紀になると、機械論的世界観がものごとの本質であり、すべてのものごとを機械であると捉えるような新しい精神段階に移行しました。」と述べている。
人間は慣れる生き物であり、今生きている多くの人々は、幼少期から機械論的世界観に馴染んでいるので違和感があまりないのかもしれない。アドラーが「ライフスタイルは幼少期の頃に大部分が固定される」と考えていたことと通底している。
「科学革命前夜まで、西洋の人々も驚きと魅惑に満ちた世界を生きていた。これを『魔法にかかった世界』(enchanted world)と表現してもいいだろう。醒めた意識が見据えるのとは異質の、不思議な生命力をたたえた世界への畏怖と共感。岩も木も川も雲もみな生き物として、人々をある種の安らぎの中に包んでいた。前近代の宇宙は、何よりもまず帰属の場としてあったのである。人間は疎外された観察者ではなく、宇宙の一部として、宇宙のドラマに直接参加する存在だった。個人の運命と宇宙全体の運命とが分かちがたく結びつき、この結びつきが人生の隅々に意味を与えたのである。このような意識のあり方を『参加する意識』と呼ぶことにしよう。」
モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,14p
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キーワード:機械論的世界観へ人々が移行した
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,16p
世界から精神と価値が締め出された
機械論的世界観がもたらした2つの結果
デカルトの基礎知識を踏まえたうえで、機械論的世界観をもうすこし掘り下げていく。
アレグザンダーによれば、機械論的世界観は現代において2つの結果をもたらしたという。
- 「(精神的概念としての)私」が世界観から外に出てしまったこと。
- 「価値についての明確な理解」が世の中から消えたこと。
デカルトにおいては「精神」は世界から締め出されず、神によって、あるいは松果体によってつながれていた。
しかし現代ではそのような松果体の機能は実証できないものとされている。また、神への信仰も薄れているため、科学的思考において神が介入できる余地はない。神の存在証明も論理的に批判されているし、そもそも経験的に検証可能な事柄ではないとされている。
現代では「精神」にアクセスする要素が欠けている。すくなくとも、そのような世界観が主流であり、アクセスできるかどうかは「信仰」や「感覚」といった「単なる意見(価値観)の問題」として隅に追いやられている。
もちろん哲学で多様な試みがされていたり、科学の分野でもそのような試みがされてきたのかもしれない。
しかし多くの一般の人々はそのような試みやその成果の賛否をよく知らないし、大きな影響も受けていないのではないか。もしほんとうに世界観を変えるべきだと信じられるような成果が生じれば、世界は少しずつ変わっていくのかもしれない。
いずれにせよ社会的条件と認識の変革は両輪であり、どちらかが欠けては前に進まない。たとえば量子力学が主流とならないのは、それが生産性へとつながりにくいから、うまくマッチ(調和)しないからだという考えももつことができる。
中世の多くの人が、同時代のデカルトの主張をよく知らなかったように、アレグザンダーの主張を我々はよく知らない。
しかしアレグザンダーの主張が正しいと解釈され、かつ社会的条件に上手く調和すれば、世界は変わるのかもしれない。このような文脈で考えると、「パラダイムシフトの条件」といったようなクーンの主張の理解が重要になってくるだろう。クーンについては別のカテゴリーで扱う予定である。
機械論やら全体論がなんとかとかいう小難しい理解の次元ではなく、近所に美しい建物があり、美しい人間関係で周りが満ちているようなそういう次元への移行であり、幼少期からすでに無意識にもっているような世界である。
多くの人々は「精神、主観、価値」は単なる意見の領域にすぎないと考え、それらは「事実」のように科学で扱うような主題ではないと考えている。
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キーワード:機械論的世界観がもたらした2つの結果
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,16p
機械論的世界によくある個性の重視、価値の重視、民主制の重視
たとえばアレグザンダーは「科学はただ事実を私たちに伝えてくれますが、何をすることが適切なのかについては、芸術的または道徳的な私的事柄となるのです。自分自身の価値を具現化することは自然な権利であり、科学的世界観は価値については何も教えてくれませんので、それは自分自身の果たすべき民主的な義務なのです」という機械論的世界観に特有の主張を紹介している。
たしかに一見、正しそうにみえる。実際にこの意見に賛同するかどうかアンケートをとっていけば、日本人の多くはYESと答えるのではないだろうか。私も変人と思われないためにYESと答えてしまうかもしれない。
科学は事実のみを扱い、価値を扱うべきではない。これはウェーバーの価値自由が誤って解釈されたケースとよく似ている。
ウェーバーの真意は、事実には価値が関わらざるを得ないので、自らの価値を自覚するべきだという趣旨であった。たとえば科学者は「人間は生きる価値がある」というそれ自体は実証できない価値判断をもとに、特定の事実を集め、調査し、因果関係を把握し、それらをまとめているのである。
「自分の国の人が最優先だ」という価値や「最も苦しんでいる国の人が最優先だ」、「人間以外の動物だ」という価値もあるだろう。
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キーワード:科学における事実と価値の分離
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,21p
多元論的価値観とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
アレグザンダーは機械論とセットで「多元論的価値観」も現れているという。
POINT多元論的価値観:一般に、社会や個人において複数の価値観や信念、文化、思想、ライフスタイルが共存し、互いに認め合うという考え方。特定の価値観が唯一正しいとする「単一価値観」とは対照的な概念。多様性の尊重、対話を寛容、共存と強力、個人の自由、柔軟性と適応などに重きが置かれている。
一見正しそうに聞こえる。しかしその結果、現実は醜い建築物ばかりが生まれているとアレグザンダーはいう。
ものすごくざっくりと悪い意味で言い換えてしまえば、「あなたの価値観はあなたの感想にすぎず、科学では扱えません。それはあなたが趣味の領域で勝手に実践して発表してください。もし公の領域で実践したいならば、議論して下さい。しかし、あなたの主張を裏づけるような科学的根拠はなにも提供できません。多数決でなんとかして下さい。結局は軽視されますよ。」というわけである。
アレグザンダーによれば、「異なった人々の価値観をうまく組み合わせられる一貫した方法はほとんどない」という。
何が良いかについての、社会共通の意識の発展がない。「異なった相容れない複数の視点が、調和がとれずにいい加減に妥協された状態だけが残された」という。一見聞こえはいい「多元論的価値観」も、結局はカオス(人それぞれ)や民主的な多数決に落ち着いてしまうのである。
何ら指針のない中で自由に価値を求めるとこうなってしまうのかもしれない。指針があることは必ずしも自由にたいする抑圧ではなく、むしろ自由を助けることがあるのではないか。なんら指針がないと逆に、一定の「平均的価値」に収束することがあったり、あるいは極端に外れた「平均への反発的価値」に収束するのだろう。
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キーワード:多元論的価値観
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,19p
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,21p
普遍と平均、普通の違い
調和の取れたような「普遍」と、妥協された「平均」は異なることに注意する必要があるだろう。どちらも「普通」と表現されることがあるが、しかし違う。
たとえば西部邁さんは「価値不感症の一つの形態は、あたかも自分が状況に対して感応的であるかのように装うことを可能にするもので、それは無数の他者における平均的な価値観、つまり『世論』の示す当為に従うことである。統計的に水平化された他者の価値のうちに自己のそれを投射するというのは、きわめて受動的なやり方である。(『虚無の構造』,21p)」と述べている。
機械論的世界観において、「価値」が軽視され、絶対的な価値などは事実のレベルではわからないと信じられるようになる。その結果、価値相対主義が共通の価値観となる。つまり、真理は人の数だけあり、多元であるということである。
しかしそれではウェーバーが「神々の争い」と表現したように、ある人とある人の価値の闘いが生じる。あなたはそう考えるのが正しい、私はこう考えるほうが正しいとギスギスしはじめる。有名な歌詞で「僕が僕であるために勝ち続けなきゃならない」といったのと似たような状況となる。
もちろんそうした「闘い」にはメリットがあるのかもしれない。もし真剣に「価値」について勝ち取るような、そこを目指すような態度があれば事情は変わったのかもしれない。
しかし現実には、そうした価値の闘いを避け、西部さんがいうような「価値不感症」になる人が多いだろう。たとえばマスコミが「席を譲らない人はろくな人間ではない」と報道すれば、我々はそれに適応してとくに考えもせずに「席を譲らない人はろくな人ではない」という価値を受け入れる。それ以外には「権威」への反発としての「独自性」ばかりに偏った醜い価値が表現されることもある。
価値については「世論」に任せ、事実については「専門家」に任せ、自分たちはとくに何も考えずに、ひたすら適応するような人間を西部さんは「世人(大衆)」と呼び、阿呆とすら表現している。
実際、価値について真剣に考えることは心をすり減らすことがあるし、価値の分裂状態へ心を置くことにもなる。そうした状況では大衆になったほうが合理的な判断であり、やむを得ないのかもしれない。なんの指針もなしに自由に価値を追求するというのは簡単ではないのである。
特に日本は「出る杭は打たれる」のにも関わらず「個性は素晴らしい」と、一種の矛盾的状況に個々人を置かせている。公の場で杭として出るならば科学的根拠・事実に基づいたり、実益を生むような領域に限られる。そうでなければ「私的領域」でお好きにどうぞというわけである。まさに出る杭を打つ言葉が「それって、あなたの感想ですよね」ということになる。
アレグザンダーの論点はこうした分裂(コンフリクト)状態をできるだけ解消するような「事実と価値に基づいた、普遍的な質とその基準」を明らかにすることである。もしこの基準(指針)があれば、世論に頼る必要はなく、自分で考えることができる。
もちろんカスタマーセンターの応答マニュアルのように、一種の思考停止なハウツーを提供するわけではない。より抽象度、論理階型度が高いものを提供するのである。しかし抽象的すぎても我々が実際にそれを使えないと困るので、具体的な形としても提示されることがある。
その具体化の一つが後に扱う幾何学的特徴だろう。もっとより具体的には建築におけるパターン・ランゲージのような「コツ(パターン)」ということになる。窓はこの形状、この配置の方がいい感じになるよね、のようなコツである。
私が世界観の外に締め出されるとは
・私が世界観の外に締め出されるとはどのような状態か、いまいちイメージしにくい。
私(精神)が、物(自然、体)に対して向かっているというようなイメージを我々はもっている。
つまり、「私(精神)」が外界に向き合って存在するように感じられるのである。
体は今、体に向き合っている私(精神)ではないというような感覚がある。体は機械と同じように、物である。しかし精神は物のようには見えない。物のように支配、コントロールできないものは隅に追いやられる。その結果、私(精神)は軽視され、世界観の外に締め出される。
たとえばヒューム(1711-1776)は精神を「知覚の経験の束」であり、習慣によってそうした精神(一貫した自己)があると信じているだけだと考えている。
たとえばデカルトは『人間機械』というものを考えていたそうだ。デカルトは人間の体を機械のように捉え、その動作は機械的な反射によって説明できると考えた。
例:手が炎に触れたときの反応を機械的な仕組みとして説明した
図にするとこのようなイメージとなるようだ。
正直、よくわからない。しかし、精神の役割が非常に乏しそうだということはわかる。たとえばパブロフの犬がほとんど自動的にベルの音でよだれをたらすように、人間も自動的に火から手をひっこめる。こんなふうに人間が考えられていて、健全な世界観が学習されるようになるとは思えない。
もちろん、脊髄反射のように部分的にそうした因果関係が確認できるかもしれないが、それが全体に反映されたら悪夢だろう。
バーマンは「脳(内的自己)は体の各部分を超然と傍観しているだけであり、相互作用があるといっても機械的であり、ロボットのようにふるまっている自分を自分が見ているようだ」と説明している。
このあたりはいまいち理解できない。脳は精神ではなく、精神とつながっている体ではないのか。それゆえに、精神(本当の自己)が、機械のようにふるまう脳(偽物の自己)を見ているということだろうか。いずれにせよ、実際に体へ作用するのは脳の松果体であり、松果体への精神の働きはよく説明されていないので、結局は機械的に、因果関係の連鎖によって「反射行動」の働きが説明され、そこに主体的な精神という意識への説明は欠けている。
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キーワード:人間機械
モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,34p
R・D・レインの「にせの自己システム」
モリス・バーマンはデカルトの人間機械を、R・D・レインの「にせの自己システム」と似ていると主張している。
デカルトと合わせて考えてみるとこのようなイメージになるのだろうか。
たしかに脳、体、ろうそくといったようなすべて「物」に分類されるようなイメージとなり、精神が隅に追いやられる。このような脳の内部というより、もっと外部かもしれない。
ようするに、機械論にとって精神は「よくわからないもの」、「単なる傍観者」、「調査する実益が低いもの」、「再現性がないもの」としてカテゴリーされてしまうのではないだろうか。デカルトはたしかに二元論を主張したが、しかし精神と体のつながり、一致の説明をよくできていない以上、ほとんど「物に偏った一元論」や「唯物論」にすぎないと科学的にはみなされるようになるのだろう。
つまり、精神が欠けた機械のようなイメージである「機械論的一元論」へと実質的に形骸化していくことになる。精神がないと科学的に実証できないかもしれないが、そうしたものは悪魔の証明であり無理難題とされ、「では精神があるとそちらが科学的に証明してください」という話になる。
「『奥深く』に引きこもった自己が、生命を失って(生の魔術を解かれて)機械のように動く体としての自分が演じる他者との関わりを、まるで科学観察者のように冷ややかに見ている。そんなにせものの自己が捉えた世界がリアルであろうはずはなく、行為から意味が抜け落ちることも必然である。仕事のなかでも、『恋』と呼ぶものにあるときさえも、空想の世界に引きこもり、偽りの自己を始動させては、日常生活を構成する儀式の連続をこなしていく。この自己分裂のプロセスは二歳にしてはじまり、幼稚園・小学校を通して強化され、荒涼たる高校生活においてはずみをつけて、社会に出てからはもはや日常の現実そのものになる。会社の重役であり医者であれレストランのウェイターであれ、誰もが彼もが演技し他者を操作しようとする。そうやって自分が操作されることを食い止めようとするのだ。」モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,19p
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キーワード:レイン、分裂病
モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,18p(図)
モリス・バーマン『デカルトからベイトソンへ』,19p
ジョン・ロックによる第一次性質と第二次性質
たとえば哲学者のジョン・ロック(1623–1703)は第一次性質と第二次性質を明確に区別している。これは「事実」と「価値」としても捉えることができる。
POINT第一次性質:客観的な事実につながるような認識を生み出す性質。例:「大きさ」や「長さ」など。
POINT第二次性質:人の感覚から生じる性質。例:「赤さ」や「暖かさ」など。
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キーワード:ロック、第一次性質と第二次性質
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,133p
ホワイトヘッドによる「自然の二元分裂」
ホワイトヘッドの写真の出典(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)
哲学者のアルフレッド・ノース・ホワイトヘッド(1861-1947年)はこうした自然についての性質を二つに分けて考える状態を「自然の二元分裂」と表現している。
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キーワード:ホワイトヘッド、自然の二元分裂
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,134p
アレグザンダーの集団精神病とベイトソンのダブルバインド
アレグザンダーはこのような機械論的世界観において醜い建築が創り出されている状況を「集団精神病」と呼んでいる。
レインの「分裂病」やベイトソンの「ダブルバインド」、そして見田宗介さんの「時間のニヒリズム」、そしてアドラーの「劣等コンプレックス」と通底している一種の「病気」である。そしてそのどれもが「機械論的世界観」と関連しているという点がポイントになってくる。
しかしこの「病気」を真剣に考えるとおかしくなってしまうから、人々はできるだけ考えないようにしている。趣味に没頭したり、日々の刺激に触れたり、過剰なアルコール接種、病院の薬でごまかしている。たとえばニュースサイトのコメント欄やSNSで誹謗中傷を繰り返す人も一種の自己防衛なのかもしれない。
心ではおかしいと思いつつ、「そうせざるをえないような状況」に追い込まれているのである。もちろん一定の行動には社会的に正当化されないものもあるが、しかしそうした行動が社会的条件や、それらが生み出す世界観と何ら関係がないとはいえないだろう。完全に規定されるわけではないが、しかし個人の行動の選択へ影響を与える。だとしたら、極端に個人の自由意志の問題に偏ることも不適切である。そうした個人を徹底的に避難し、社会的に叩き潰したとしても解決にはならない。要素ではなく関係を、そしてその関係を規定する上位の体系を見る必要があるのではないだろうか。
「それってあなたの単なる感想ですよね」、「それって普通(大衆的)ではないですよね」と言われるのが怖い。
そうして徹底的に「価値」を軽視し、「事実」に偏重した科学的、客観的な説明に頼って我々は行動する。価値においても、平均的なものをできるだけ選ぼうとする。もちろん程度の差は個人で違うだろうが、しかしそうした世界観に傾いているのである。この世界観によって得られる生産性や効率性と、失われし健全性を比較する必要がある。
また、それらの両立を可能にするような世界観、そして理論的体系を考える必要がある。また、その両立こそが「説得」へとつながる有効な道である。ただ「古き良き価値へと偏重した時代に戻ろう」ではまるで話にならない。
「では私たちは科学を発展させ、兵器や製品をつくります。あなた達の国は攻め込まれ、没落し、愛する人々を失うでしょう」となるわけである。 ラブ&ピースは歌の領域だけにしてくれ、となってしまう。
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キーワード:集団精神病
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,6p
「機械論的秩序」
「機械論的秩序」とは
1:世界観とは「ものに対する考え方」である
2:「ものに対する考え方」を規定するのは「秩序に対する考え方」である。とくに、「空間における秩序」をアレグザンダーは重視する。
3:機械論的世界観においては、「機械的な秩序」が「ものに対する考え方」を規定する。
POINT機械論的秩序:ものごとがメカニズムとして機能する方法として語られ、うみ出される秩序のこと。
例:葉の構造。葉の柄は葉の被膜を支えるために機能している。被膜は細胞を支えるために機能している。細胞は日光を吸収するために機能している。
これと同じように、1時間の耐火性という機能があるドア、冷蔵庫を通すことができる機能をもつドアといったように建築でも「機能」が語られていく。端的に言えば、機能していることが秩序につながるということだろうか。とくに結果が目で見てわかるような秩序が重要になる。
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キーワード:空間、秩序、世界観
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,8p
キーワード:機械論的秩序
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,15p
サリヴァン「形は機能に従う」
ルイス・サリヴァン(1856-1924)という人が「形は機能に従う」という有名な言葉を残している。有機物、無機物、そして形而上学的なものも含めて、「すべてのものが従う客観的な真理」であると主張しているそうだ。
そして「機能」というのは客観的に理解できるという意味合いを含んでいる。たとえば椅子は座るという機能に合うような形をもち、飛行機は速く飛ぶという機能に合うような形をもつ。これは「単なる感想」には聞こえず、納得できるように思えるもの、機能と形の因果関係を含んでいるように見える。
機能が形を規定するというわけである。しかしサリヴァンの時代では「機能」が正確に定義されておらず、生物学のアナロジーとして捉えられていたという。
たとえばキリンが高いところの植物を食べるという機能のために、首が長くなるという形を獲得するという具合にである。しかしよくよく考えると、キリンは私たちが創った形ではない。しかし芸術は私たちが創っている形である。ありのままの自然を芸術とは基本的に呼ばない。この違いはどこにあるのか。
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キーワード:サリヴァン、「形は機能に従う」
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,36p
ミヒエル「形は目的に従う」
ミヒエル(Jan Michl,1946-)という人がサリヴァンの「形は機能に従う」という主張を批判しているという。
機能には2つの使われ方があるという。
- 目的や意図としての機能。例:扇風機には人を涼しくさせるという目的がある。
- 実際の形に基づく動作としての機能。例:扇風機が実際に風を送り出していて、人の体温を下げている。
こうした説明は社会学者であるロバート・マートンの目的と結果を明確に区別する姿勢と似ている。社会科学は主に結果としての機能を明らかにするべきだという姿勢である。
しかし芸術の分野ではどうだろうか。芸術は「形を創り出す」行為であり、科学は「形を観察して機能を見いだす」行為である。芸術においては、まだ形が創り出されていないのだから、形に先立って機能を説明する必要がある。芸術家にとっての機能は科学者にとっての機能と同じではなく、「目的」なのである。
従って、ミヒエルは「形は機能に従う」ではなく、「形は意図(目的)に従う」という言葉に修正したほうがいいと主張していることになる。
しかしもし、形がデザイナーの意図に従うものだとすれば、「単なる意見」となってしまうのではないだろうか。つまり「主観性」が強調されることになり、「客観性」が薄れるのである。たとえば「私が空気が穏やかになるという機能を期待して、この形を選んだ」というような説明になる。
もし仮に「機械論的世界観」に規定された人間ならば、「単なる意見」にすぎないクリエーターの狙いである「機能」を重視しようとは思わないだろう。
それゆえに、目に見える「結果」をとにかく重視するようになる。たとえば防火性だとか、防犯性、調理場がある、トイレがあるといった結果が客観的によくわかる機能である。美しく見えるというような装飾性、価値は軽視されていく。その結果つまらない建物ができる。あるいは、「単なる意見」を自分勝手に考えて醜い、よく言えば独創的、個人的な建物が建てられる。
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キーワード:ミヒエル、機能の区別、「形は意図に従う」
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,37p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,38p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,39p
ヴァルター・グロピウスによるデカルト的方法の使用
グロピウスの写真の出典(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)
建築家として著名なヴァルター・グロピウス(1883-1969)はバウハウスという世界的に知られた建築に関する教育機関を創設したそうだ。
長坂一郎さんはバウハウスにおける方法とデカルトにおける類似性を説明している。
デカルトの原子論的アプローチをまとめるとこのようになるそうだ。
グロピウスにとって複雑な問題は「住むとはどういうことか」に相当する。「住む」という概念を分解していけば、「家に入る」、「客をもてなす」、「調理する」、「食べる」…といった要素(機能)が得られる。
次に、こうした要素に適合するような形を考えていく。そうしてできたものを組み合わせていく。たとえば「食事をする」は「調理する」、「食べる」、「くつろぐ」のような要素の組み合わせとして考えていく。「建築を建てる能力とはなにか」という複雑な問題も分解していき、カリキュラムを考えていったそうだ。
重要な点は、グロピウスの建築に対するアプローチがデカルト的であり、機械論的であり、科学的であることである。そしてこのようなアプローチが「素晴らしい」と思われている時代なのである(おそらく今でも?)。
このような方法の結果、「装飾の否定」や「単純な幾何学的形態」がもたらされるという。アレグザンダーのいう「醜い建築」である。「装飾でしか実現できないような単純で明白なこと、機能とはなにか」と問われていき、そうした「曖昧なもの」が切り捨てられていくのである。これは「社会に機能しない人間は価値がない」という世界観ともつながっていくのかもしれない。それを恐れて、人間はとにかく「結果」ばかりを、量を重視するようになる。時間を節約し、貨幣を稼ぐ(タイパ、コスパ重視があたりまえになっていく)。
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キーワード:分析・綜合・枚挙
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,40-41p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,48p
キーワード:美の機能
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,44p
キーワード:バウハウス
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』47p
科学の否定ではなく、拡張を目指す
デカルトは第二規則において「確実不可疑の認識をわれわれの精神が獲得できると思われるような対象に携わるべき」と明確に主張している。つまり、曖昧なものは「単なる意見」であり、関わるべきものではないということである。
逆に言えば、「われわれの精神が獲得できると思われる」という程度にまで理論化することがもしできたとすれば、科学は「価値(装飾、美、名付けえぬ質)」に関わるべきだということになる。そしてアレグザンダーはそういう試みをしようとしているのである。これはアレグザンダーの言葉では科学の否定ではなく、「科学の拡張」である。「事実だけではなく、価値をも扱う科学」である。
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キーワード:科学の拡張
『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,22p
アレグザンダーによる『パターン・ランゲージ』の失敗
まずはアレグザンダーの業績をざっと、代表的なものを概観していく。
(1)『知覚と寸法体系』(1959)
・「われわれが秩序あるものを好む理由」に関する説明
・「加法について閉じている」という「秩序」の説明
(2) 『視覚上の美意識に関する考察結果』(1960)
・「美とはなにか」に対する心理学論文
(3)『形の合成に関するノート』(1963)
・コンフリクト(不適合)なものを見つけ、最もシンプルなものへと分解し、それを解消する形を見つけ出すというデカルト的手法の徹底が行われる。
(4)『都市はツリーではない』(1965)
・『形の合成に関するノート』のような「ツリー構造」だけで物事を考えることは失敗だと考え直した。
・自然発生的な都市は「セミラティス構造」をしていることを発見した
・人の実際の生活に合致しないツリー構造を生み出すメカニズムの都市計画手法を批判した
(5)『サブシンメトリー』(1968)
・シンメトリー(対称性)、セグメント(区画)が美に関係している仮説を立てた
(6)『パターン・ランゲージ』(1977)
・現在の都市空間をつくり出している間違ったルール・システムを正し、都市、コミュニティ、家、部屋、細部に至る各レベルのニーズに合致する構造をつくり出すルール体系を構築した。
・ユーザー参加のデザインが不可欠であることを示した
(7)『時を超えた建築』(1979)
・名付け得ぬ質について詳しく述べる
・名付けえぬ質の実現を保障する具体的な方法、定義が不十分だった。
(8)『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー』,全4巻(2002~2005)
・機械論的自然観に代わる自然観を模索した
・名付けえぬ質(無名の質)の実現を保障する方法を、質が現れているかどうかを判定する基準を検討した
パターン・ランゲージの定義について
POINTパターン・ランゲージ:「良い形を特徴づける」構造を具体的に生成するデザインプロセス、デザインプログラムのこと。
パターンを基盤として創られるデザイン言語のこと。パターンを組み合わせて適切な体系(全体システム)を求めることに関するコツ。「パターンがいかにして組み合わされるかを示したシステムであり、デザイナーに対してある全体性を形成する助けとなるもの」。「対象(環境)と、そこに働く力(フォース)から幾何学的関係を導く体系」のこと。ざっくりいえば複雑度に幅がある関数のようなもの。こういう関係でつくれば、いい出力が期待できるよね、のようなtips(コツ、ヒント)。
このようにいくつもの言い換えられた定義を見ても、何を言っているか初見ではさっぱりとわからない。この動画ではパターン・ランゲージを詳細に説明することを目的としていない。アレグザンダーに関してはこの動画シリーズ全体で、少しずつ扱っていく予定である。なによりも私がじっくりと少しずつ理解していきたいと思っている。
とはいえ、ガイドライン的にでも説明しておく必要がある。全体がすこしでもわかると、部分の理解がより円滑になるからだ。
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キーワード:パターン・ランゲージ
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,96-97p
アレグザンダーにとって「デザイン」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTデザイン:コンテクストに形を適合させようとする努力のこと。アレグザンダーはデザインの究極的な目標は「形」だとみなしている。
「ニーズの中にある対立を解消するような幾何学的関係を見出すこと」とも呼ばれるようになる。
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キーワード:デザイン
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,20p
アレグザンダーにとって「コンテクスト」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTコンテクスト:広義には、求める形を取り囲む世界の状況すべてのこと。まだ実現されていない形以外のところ、まだ見ぬ形を取り囲む周囲の状況、近い将来にその形が実現されるかもしれない場所のこと。
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キーワード:コンテクスト
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,18p
アレグザンダーにとって「形」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINT形:広義には、三角形や円などの幾何学的な形だけではなく、モノの構造や仕組み、モノの働きを含んでいる。
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キーワード:形
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,16p
アレグザンダーにとって「ニーズ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTニーズ:人のもつ客観的に検証可能な傾向のこと。
「人々がしようとすること」であり、「自発的な力=傾向」である。人々が「求めている内心」ではなく、目に見える「しようとすること」に置き換える。アレグザンダーはコンテクストからニーズがくると解釈している。
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キーワード:ニーズ、傾向
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,103p
アレグザンダーにとって「コンフリクト」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTコンフリクト:二つ以上のニーズ(傾向)が衝突している状況。
すこし具体的に考えてみよう。例えば「椅子」をデザインするとする。どのような形が好ましいかは、ニーズ次第ということになる。そしてニーズはコンテクストからくる。
たとえば仕事場というコンテクストにおいて、どういうニーズがあるか。腰が痛くなるような椅子を使っていれば、人間はどうにか楽な姿勢を探そうとするだろう。それ(行為)は目に見えるように客観的に検証可能な形で見えるかもしれない。もしこのニーズがたしかならば、それに合うような形をつくることが必要となる。トゲトゲした座椅子の形では不適合だろう。
コンテクストやニーズが違うと形が変わるというのは椅子の例でもわかる。たとえばある公園では長居させたくないために、わざと居心地の悪い形の椅子を作ることがあるという。
「排除ベンチ」とも言われることがあり、ホームレス対策ではないかと解釈されることがある。しかし、公園でゆっくり過ごそうとしているのに、排除椅子があるために早く立ち去るという全体の利用者のニーズとコンフリクトを起こすこともあるだろう。
アレグザンダーの例では「布張りの椅子」の場合は「椅子にあたっているところの痛みが増してくる(痛みを和らげようとする行動をとると解釈すれば、ニーズが見えるのかもしれない)」という。
では、立てばいいじゃないか、と思うかもしれない。しかし「誰かと話している時は立ち上がらない傾向」、「なにかに集中しているときは席を立たない傾向」などが人間にはあるという。たとえばお尻が痛いからといって学校の授業で立つことは難しい。学校の授業というコンテクストでは、2つのニーズがコンフリクトするのである。もし家ならば立っても周りにおかしな目で見られず、衝突しないかもしれない。
先程の「排除ベンチ」の例では、居心地の良い椅子で、かつホームレスが居着かないようなデザインは可能かどうか考える必要があるのだろう。たとえば独りだけ座れるスペースごとの居心地は良く、かつ横になって寝れないような形をつくるというケースが考えられる。
この場合も誰かしらのニーズとコンフリクトを起こす場合もある。しかし、コンフリクトをできるだけ解消するという方向で考えていくのである。そもそもホームレスが生じないような社会の形とは、と考え出すと話が「社会のデザイン」というように大きくなってしまうが、しかしそうした視点も重要だろう。ただ特定の場所から追い出すだけでは根本的な解消にはならない。
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キーワード:コンフリクト
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,106p
アレグザンダーは機能主義者だった
コンテクスト、いわゆる文脈なしに機能や形が決まるわけではないという点がポイントになる。このように言われると、「機能が形を規定する」というサリヴァンの意見と重なってくるようにも見えてしまうだろう。
そのとおりであり、アレグザンダーのこの時期の態度は「非目的論的な機能主義」である。より徹底された、より科学的な機能主義というわけである。その意味ではマートンの態度とも類似している。
「内心」といった不確定なものではなく、「行為」という客観的・事実的に把握できるものとして機能を捉え直す、新しい機能主義のようなものであり、「行動主義的機能主義」ともいえるかもしれない。
アレグザンダーの初期・中期の試みはこのようなデカルト的手法によって進められていくのである。皆さんが予測している通り、このデカルト的態度(事実への偏重)が『パターン・ランゲージ』の失敗へとつながっていくのである。
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キーワード:機能主義
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,113p
アレグザンダーにとって「デザインプロセス」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
アレグザンダーによるデザインの手順(デザインプロセス)は以下のようなものとされている。
図にするとこのようなイメージになるという(長坂さんの図を参考にした)。
このように見ていくと、コンテクストの論理階型、抽象度がだんだん上がっていくように見えてくる。例えば目の前の特定の人間や会社における椅子のコンテクストだけではなく、不特定の人間や不特定の場所といったコンテクストをイメージし、さらにそこから抽象度を上げる数学的なコンテクストへと上がっていく。具体性が抜け落ちていくようなイメージである。
このような試みは1963年の『形の合成に関するノート』で主張されたものである。この手法は複雑なものを分解し、そこからまた綜合するというデカルト的な手法となっている。
アレグザンダーの分析の特徴は、適合する条件を考えるのではなく、「不適合な条件」をリストアップすることにある。
いきなり先程のデザインプロセスと言っていることが違うように思える。しかし、無限のようにある適合する条件よりも、適合しない条件を探したほうがアレグザンダーは効率的だという。
適合しない条件を解消していくことで、コンテクストに適合する形を明らかにしていくことにつながっていく。凸のある金属の凸部分を削っていく作業のようなイメージである。
社会学でいう「理念型(典型例)」をつくって偏差を索出する方法と関連させると面白いかもしれない。適合的な典型例をゆるく、極端につくって、不適合を索出するのである。何の指針なしに不適合を見つけるわけではないので、あったほうが便利だろう。
もちろん、極端なものとはいえ、そもそもその典型例の作成が難しいという問題はある。すでに適合していると思われるデザインの例を見て、共通項を絞り出していく試みも面白いかもしれない。
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キーワード:デザインプロセス
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,21p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,24p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,27p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,189p(図)
キーワード:不適合
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,54-55p
アレグザンダーにとって「ツリー構造」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
デザインプロセスを経て、コンテクストが要求する条件がリストアップされていく。そこから、グラフ化、ダイアグラム化を行っていく。
ここで得られるグラフがいわゆる「ツリー」である。
このツリーは要求が依存関係にあるようなもの(例えば、駐車スペースをつくると、代わりに庭のスペースを作ることができないなど)をできるだけ少なくしていく形式的な過程である。
こうして問題を複雑なものから単純なものへと分解していき、「比較的独立した小問題」を得ることができる。そしてこの問題を解けるような「形」を作ることが要求される。問題を解き終わったら、それらを綜合していくのである。
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キーワード:比較的独立した小問題
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,60p
デザインプロセスの2つの問題
- 比較的独立した小問題を解決する形をどう導けばいいのか、「具体的なコツ」が説明されていない。この問題は『パターン・ランゲージ』によって解決が目指される(特に建築のコツだが)。
- 綜合の段階において、分解する段階にツリー構造と対照的になる保証がない。この問題は『都市はツリーではない』によって解決が目指されることになる。
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キーワード:デザインプロセスの2つの問題
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,61p
アレグザンダーにとって「セミラティス構造」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
『都市はツリーではない』においては、自然発生的な都市の構造や自然は「ツリー構造」ではなく「セミラティス」の構造をもっていることをアレグザンダーは主張している。
POINTセミラティス構造:二つに分割するときにきっちりと分割せず、重複を許すように分割するときにできる構造
図にするとこのようなイメージとなるという。
アレグザンダーは計画に基づいて作られている新しい都市が死んだように簡素で魅力的ではないのは、その構造が過度に簡素化されたツリー構造であるためだと考えた。そして、従来の伝統的な美しい都市はセミラティス構造であることを発見した。
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キーワード:セミラティス構造
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,66p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,70p
アレグザンダーにとって「パターン」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTパターン・ランゲージ:「良い形を特徴づける」構造を具体的に生成するデザインプロセス、デザインプログラムのこと。
よくわからない言葉が出てきたときは、分解して考えてみよう(こういうとデカルト的だなと思う)。パターンとはなにか。ランゲージとはなにか。
POINTパターン:日本語でいうと規則であり、繰り返し現れるものである。「SならばR」とも表現されることがある。
おそらくSは状況(Situation)のことであり、Rは幾何学的関係(Relation)のことだろう。例えば「砂の上に一定の風が吹く」というSの場合、「風紋」というRが生じる。
例えば砂漠で風が吹くと、一定の形が生じる。こうした形を「風紋」というらしい。毎回ランダムな形ができるわけではなく、一定してこういう形がつくられる。どうやらこういう形を作る、繰り返し表れるパターンがありそうだ。
たとえば1+1=2、1+1+1=3と聞けば、1+1+1+1=4だと予測できる。これもなにかしらの規則(パターン)があるからだ。
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キーワード:パターン
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,111p
アレグザンダーにとって「ランゲージ」とはなにか、意味、定義、わかりやすく解説
POINTランゲージ:日本語でいうと「言語」のこと。あるいは「言語システム」のこと。
パターンの言語システムとは一体どういうことことなのか。ここが小難しくて私にはわからない。たとえばjavascriptというプログラム言語を学ぶときのような、一定のパターン(関数)の集まりとして、独自に一つ一つ覚えていくようなイメージだろうか。
アレグザンダーは「人の数だけパターン・ランゲージがある」とも述べているように、一定の類似性もありながら違うものを認めている。日本語という言語を我々がもちつつも、独自の表現が可能なことと似ているのかもしれない。
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キーワード:パターン・ランゲージ
『パターン・ランゲージ』,13p
「モノよりも関係(パターン)のほうが基本的」であるとは
まず大前提として、アレグザンダーは「環境はパターンからつくりだされる」という。この大前提から、ほとんどの人は理解不能だろう。
たとえば「キッチン」という環境を考えてみよう。キッチンを構成する要素とはなにか。
私なら、冷蔵庫、ガスコンロ、電子レンジ、調理器具、等々を挙げていく。そうした「モノの名詞」を積み重ねていけば、やがて環境が作られるのだろうと考える。
しかしアレグザンダーは、「私たちはものには名前をつけますが、関係にはあまり多くの名前をつけません。」と述べ、西洋言語圏では「モノの名詞が中心」であることを述べている。
しかし、実際には「モノよりも関係(パターン)のほうが基本的であり、中心である」という。これは慣れないとわかりにくい考え方である。社会学では「関係(形式)」を重視するジンメルがいたので少し馴染みやすい。宗教にも経済にも、家庭にも「支配関係」があるといったように形式を考えていくという発想を学んだ。社会を個人間の心的相互作用としてとらえ、その諸形式を対象とする学問を形式社会学とジンメルは呼んだ。点ではなく線を見ていくコードである。
たとえばキッチンは、カウンターと冷蔵庫と流しとレンジの間には「ある関係」が存在し、その関係なら成り立っている。
さらに電子レンジはオーブンとヒーターとスイッチの間の「ある関係」から成り立っている。
さらにスイッチは人間の手で回せる部分と電気的接触の「ある関係」から成り立っている。
さらにこれを掘り進めていけば、「原子」につきあたる。
一般に、原子は物の最小構成要素と考えられている。原子ではなく粒子であると言い換えてもいいが、最小構成要素は「物」であると我々は通常考える。
しかし、現代科学、たとえば量子力学の分野では原子を「確定した位置や運動量を持つ物」としてだけでなく、「確率的な波動関数」として記述することがあるらしい。波動関数とは、いわゆる相互作用であり、まさに「関係」である。哲学でもホワイトヘッドが関係存在論という「存在は物体そのものではなく、それらの間の関係性によって定義される」という主張を唱えているという。
ウェーバーの文脈で言えば、社会学者は「天使であれ」ということになるが、実際に社会を外部から中立的に観察することの難しさがあることに似ている。社会を(孤立した)物のように見ることは難しいのであり、機能や関係、構造として見ざるをえない。そしてその関係の集まりが体系であり、「社会システム」ということになる。ルーマンではその最小単位がコミュニケーションであり、人間ではないという点にポイントがある。そうした意味では社会学をパターン・ランゲージとして解釈し直すこともできるかもしれない。
アレグザンダーは物を「パターンの集合に名付けた簡便なレッテルにすぎない」という。たしかに、電子レンジはさまざまな関係の集合である。便利だから電子レンジという「物の名詞」、「要素の名詞」で呼んでいるだけなのかもしれない。
私がこの話を聞いて思い出すのは、クラスのクラス、クラスのクラスのクラス、クラスのクラスのクラスのクラス・・というように論理関係がどんどん上がっていくというラッセルやベイトソンの論理階型の話である。
しかも、現象が論理階型で説明できると言及されていた。先程の話ではキッチンというクラスが一番大きくて、原子というクラスが一番小さかった。より大きな全体と、より小さな全体がつながっている。また、せっかちや悲観的、競争的といった性格も対人関係において特定の反応をする傾向と考えれば、「関係」のラベルだといえる。私に孤立して性格があるわけではなく、私と他者との関係を表すラベルなのである。
システム(体系)とはとはいつたいなにか
他にも「システム(体系)」という用語もいまいちわかりにくい。社会学ではシステムを「相互に関係をもつ構成要素からなるひとまとまりの全体であり、その全体はその環境に対して、境界を維持してゆく能力を持つ」と定義することをマートンの動画で学んだ。
パターン・ランゲージの構成要素とは「関係(パターン)」であった。ということは端的に言えば、「パターンを組み合わせたもの」が体系である。最小構成要素が「関係」であるという点が特徴的なのだろう。
パターン同士のどんな組み合わせ方でもシステムになるのだろうか。アレグザンダーが求めているのは「美を実現するような組み合わせ方であり、コツ」である。
コツは一つではなく、たくさんある。そしてそのコツは電子レンジとスイッチのように、大きなものから小さなものまである。つまり、大きな体系や小さな体系があるということになる。もちろん、建築だけではなく、学習のコツ、スポーツのコツ、絵を描くコツ、営業のコツ、田植えのコツと、多様な体系がありえる。しかしそれらのコツのより上位の共通したコツである「美」というものがあるのか、という点がポイントになるのだろう。
アレグザンダーの『パターン・ランゲージ』では主に町が大きな全体であり、順に建物、施工となっている。
例えば施工では椅子をどうするか、小物をどうするかなどのより小さなパターンからなるパターンが語られている。
「要するに、どのパターンも孤立した実体ではない。他のパターンの支持なくしては、個々のパターンはこの世に存在できないのである。上位のパターンにはめ込まれ、同位のパターンに囲まれ、下位のパターンを組み込んで存在するのである。これは、基本的な一つの世界像である。つまり、何かを造ろうとすれば、それだけを単独に扱わずに、その内外の世界も同時に修復せねばならぬということである。」(『パターン・ランゲージ』、6p)
・特に参考にしたページ
キーワード:環境とパターンの関係
スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,20p
キーワード:名詞中心、関係中心、関係
スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,69p
パターン・ランゲージはカスケード状である
パターン同士を関連付けて体系を作った物を可視化すると、このようなカスケード状になるという。カスケードとは滝のように階段状に連なっているものを意味するという。
これがツリー型ではなく、セミラティスのように重複し合っている構造という点もポイントである。
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キーワード:カスケード
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,119p
パターン・ランゲージの問題(失敗点)
なぜ失敗だとアレグザンダーは気づいたのか。
具体的には『パターン・ランゲージ』が出版され、それらを人々が使って建てた建築が美しくなかったからである。これだけでは「使う人が誤った使い方をしていた」という言い訳ができる。しかし、アレグザンダーが実際にプロジェクトに関わったものすら上手く行ってなかったそうだ。
たとえばデザイン方法論で知られるブロードベントは「実際には、状況によってあるパターンはうまくいき、他のパターンはうまくいかないのである。この並外れた試み全体に欠けているのは、どのパターンがある人にとってうまくいき、どのパターンがうまくいかないのかを決定する理論的な枠組みが何もないことである」と『パターン・ランゲージ』を批判している。
アレグザンダー自身も「第1段階の失敗こそが新たな糸口を与えてくれた」として、失敗と位置づけている。
長坂さんはパターン・ランゲージによる失敗を「形と価値の問題」とシンプルに表現している。
- 形の問題:パターン・ランゲージはそれが生み出す建物の形、つまり幾何学的特性を十分に伝えていないという問題。
- 価値の問題:パターン・ランゲージは良い形を生成するパターンと、そうではないパターンを判定する「客観的な価値基準」を十分に伝えていないという問題。
長坂さんによると、アレグザンダーはパターン・ランゲージのすべてを否定しているわけではないという。有効なパターンもあるという。
しかし、根本的に「理論のつくり方、態度」が間違っていたという。今まで説明してきた通り、アレグザンダーの理論は「デカルト的方法の徹底」として「機械論的」に進められてきた。この態度が誤っているというのである。
アレグザンダーが「全体論的世界観」や「美の客観的基準」を模索していくことになるのが『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』である。四巻あり、第一巻だけが日本語に翻訳されている。
・特に参考にしたページ
キーワード:パターン・ランゲージ、形と価値の問題
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,125p
長坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡』,126p
【中編】創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか
(続きの記事です)
参考文献リスト
今回の主な文献
クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』
クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』
クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』
クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』
坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』
坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』
スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』
スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』
汎用文献
米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」
トーマス・クーン「科学革命の構造」
真木悠介「時間の比較社会学」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」
グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」
マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」
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