【後編】創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか

Contents

はじめに

動画での説明

・この記事の「概要・要約・要旨・まとめ」はyoutubeの動画の冒頭にありますのでぜひ参照してください

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前回の記事

他のカテゴリーは創造法編集社のほうで扱い、こちらのサイト(創造日誌)では「美学」に関するもののみを扱っていきたいと思います。

前提の記事はこちらになります。

創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」

今回は記事を3つにわけました。

前回の記事はこちらになります。

【中編】創造美学第一回:クリストファー・アレグザンダーにおける「生き生きとした構造」とはなにか

クリストファー・アレグザンダー(1936-2022)のプロフィール

画像の出典(クリエイティブ・コモンズ・ライセンス)

ウィーン生まれ。大工、職人、工務店経営者、建築家、絵描きなどさまざまな仕事を行っている。1963年から20002年までカリフォルニア大学バークレー校の建築学科教授として勤務してしていた。

「彼の建築は、そこに集う人々が生き生きとした生命を感じられる場をつくることが目的である。深い信念のもと、そのような健康で生命に満ちた環境としての建築をつくるためのアイデアと実践の研究を続け、実際にまちに住み込み、実践してきた。近隣コミュニティ、複合建築、建築材料、施工、手すり、柱、天井、窓、タイル、装飾、原寸模型、絵画、家具、彫刻=これらすべてが、彼の情熱の源泉となり、パラダイムシフトの原理をうみ出す試金石となっている。」

『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 』,481p

この記事をより理解するために必要な基礎文献

クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』

クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』

クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』

クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』

坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』

坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』

スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』

スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』

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位置づけ

創造発見学について

創造発見学第四回:「創造発見学とはなにか」

POINT創造発見学個々人の「問題発見」と「問題解決」に対し、主に「認識論的アプローチ」によって対処する「健全な理論、技法、及び態度」を考える学問のこと。暫定的な緩い定義、名前である。

認識論とは一般に、「物事に対する考え方や態度」を意味する。物事に対する適切(健全)な考え方、つまり「世界観」を創造によって発見することで、問題を発見し、かつ解決を目指していく。

今ある世界観はどんな世界観なのか。どういう歴史的背景があって生じたのか。また、どういう社会的条件があって今もなお続いているのか。

仮に「不健全な世界観」だとすれば、どのようにして「健全な世界観」へと変革できるのか。そもそも不健全/健全はどのような基準において区別できるのか。また、どのようにして現実的に社会的条件を変えたり、世界観を変えたりすることができるのか。今生きている世界の世界観は、自分の幸福/不幸とどのように関わり合っているのか。

こういった特定の問題発見(ドア)を解決する「コード(鍵)」が必要であり、その重要な鍵の一つとして私はアレグザンダーの理論を位置づけている。

アレグザンダーの美学の位置づけ

抽象度の大きなクラスとしての鍵が「美学」であり、そのひとつの主要な鍵として「アレグザンダーの美学」というメンバーという形になる。もちろん、こうした分類は便宜的なものであり、現実には他の多くのものと重なり合っている。

図にして表すとこうなる。

その他には社会学やアドラーの心理学、言語学、ちょっとした小説や日々の体験まで雑多に含まれることになる。

小説に関しては閑話休題として独自のカテゴリーで扱いたいと思っている。コードは専門書や論文だけではなく、小説や漫画、アニメ、そして日々の生活に豊富に存在している。

もちろん、それぞれのコードは重複するものであり、孤立しているわけではない。便宜的に分けているだけである。

とりあえずの方針として、美学の中心にアレグザンダーを、認識学の中心にベイトソンを置いている。それ以外のコードは「その他」として適宜寄り道的に扱いたい(創造発見学というカテゴリーで扱う)。

共通点を見つける旅

重要なのはコードを細分化するというより、コードの「共通点」を見つけるということである。さまざまなコードを学び、関連付け、「新たなコード」を発見したい。それらのコードを体系化できれば望ましい。

今回アレグザンダーでも学んだように、あらゆる物・現象は「関係」で表現することができる。そして小さな関係は大きな関係の中に位置づけられている。より大きなクラスを探していく「壮大な旅」だとも言えるし、あるクラスとあるクラスに共通の上位のクラスを発見していく「ワクワクする旅」だとも言える。砂粒に世界を見出す面白さがある。

関連付け

重要なコードのピックアップ

「健全な価値観」が「自我の解放、自己放下、解脱」を志向しているというコード、その現実的な難しさ。

また、「不健全な価値観」が「独自性、個性としての自我」を強調しすぎる傾向にあること。

これらのコードは、近代的価値観への批判といえば・・というようによくあるコードであり、とくに目新しさはない。特に抽象度を一段回上げればほとんど一致していくのであり、表現の問題だとも言える。

個人的に重要なのは、「現実的な難しさ」をどう乗り越えていくかという視点であり、また「美学」と関連させるという方法的な視点である。とくに、事実と価値を、客観的に、目に見える形で乗り越えようとするアレグザンダー独自のコードが重要になる。

現実的な難しさ、コンフリクト、不調和

たとえば見田宗介さんは「一九七〇年代のはじめにメキシコでおきたある大規模な列車事故の原因は、運転手が運転席で女ともだちとテキーラをのんでいるうちに、次第にどんちゃんさわぎとなって、さわぎながら運転していたためであったというこの運転手は人柄としてはいいかもしれないけれども、近代化されたシステムの運転者としては破滅的である。」という例を挙げている(『時間の比較社会学』,292p)。

なんだ、「だらしない、責任感がない、どうしようもないやつのエピソード」かと思うかもしれない。すくなくとも私はそう思ってしまった。

しかし「自己放下」や「解脱」、「脱自己中心化」も行き過ぎるとこのように近代システムと「不調和」を起こす可能性があるという視点で見ることができる。つまり、「現実的な視点」が見えてくる。

この「生きられる共時性」というフレーズはアレグザンダーの「生命」にもつながっていくだろう。私はアレグザンダーが「生命の空間構造」の専門家だとすれば、見田さんは「生命の時間構造」の専門家だと思っている。そしてベイトソンは「生命の精神構造」の専門家だと思っている。

ベイトソンとアレグザンダーは「全体論的世界観」を提唱しているという点、デカルト批判という点で強く重なってくる。

たとえばルソーがピエンヌ湖で「魂が十分に堅固な地盤を見出して、完全にそこに安住し、そこに自分の全存在を集めて、過去を呼び起こす必要もなく、未来に一足飛びする必要もないような状態、時間が魂にとってなんの意味もなく、いつまでも現在が続き、しかもその持続を示さず、継起のあともなく、不安や充足の、快楽や苦痛の、欲望や恐れの感情もなく、ただわれわれの存在という感情だけがあって、その感情だけが魂の全体をみたすことができる、そういった状態があるとすれば、その状態が続くかぎりは、そこにある人は幸福な人といえる。」と語る時、そこには一種の自己放下を感じる。なぜなら、「私」という自我の感覚ではなく、「われわれの感覚」がそこにあり、その我々には有機物だけではなく無機物も、世界全体が含まれるようなイメージすら抱かせてくれるものだからである。

他にも、見田さんが紹介する文章もアレグザンダーの表現と近い。

「自然と同化しながら、またよく似ているが異なるある存在と愛の中で交わり合いながら、人間はおのれの存在の全的な心像を外部に投影することもできるし、その心像が外部に反影しているのを見出すことができる。彼は他人のなかにおのれを所有し、その短い自己所有のなかに、唐突な享楽を見いだすことがある。」

もちろん、後半の文章は見田さんがいうように「独我論」的な要素があり、自己放下とは反するような部分がある。自己放下ではそもそも「所有する自己」も「所有される他者」もいないからである。しかし、表現は重なることがある。

瞬間的か、持続的か

ルソーの幸福の状態は隠居や休日の一時のように、近代社会システムから距離をおいた時に生じるようなイメージがある。

近代社会システム、つまり「不健全な世界観を強いるような社会的条件」と同時に、持続的に達成することは現実には難しいという視点である。完全に解脱したお坊さんが資本主義社会の会社の社長であることは両立しうるのだろうか。

俗世にあまりかかわらなくてもいいからこそ、解脱することができるというイメージが私にもある(隠居のように)。ほとんどの人は生きるために現実的に俗世と関わらざるを得ないのである。だから、単に「お坊さんになれ(解脱はいいものだ)」では「前近代に戻れ(あの頃はよかった)」と同じくらいに非現実的なコードなのである。

また、前近代には「差別」もあったし、「職業や恋愛の自由」はなかった。現代ほどの「利便性」もない。現代には現代の良さ、近代には近代の良さがある。それをどのように現実的に調和するのか、それに関するコードが必要とされているのである。

見田さんも「ピエンヌ湖畔の状態がそれじたいとして『瞬間にすぎない』質のものであることを意味しないが、ルソーやわれわれの生きる文明の磁場の中では、普遍化されえないことであることを示唆する」と述べている(同,263p)。

ここでいう磁場は「社会的条件、社会的コンテクスト、社会的前提、社会的フォース」などとも言い換えることができるのだろう。本当に脱自己中心化を目指そうとすれば、他のコンテクストやニーズとの矛盾や衝突が生じざるをえない。それを精神的に乗り越えるのは並大抵のことではない。そうした精神論という極と、なにをやっても無駄だという決定論との極との間の調和する点を目指したい。

アレグザンダーが経験した『バトル』について

アレグザンダーの主張も同様に、従来の不健全と思われる世界観と相容れないことが多いのである。

実際に、アレグザンダーは自分の理論に基づいて建築しようとしたときに、多くの反抗を受けたそうだ。しかもこの日本でである。この闘いをアレグザンダーは『バトル』という本で出している。「効率」や「利益」を重視する人たちと、「生き生きとしているプロセスや結果」を重視する人たちでは衝突が生じてしまうのである。

アレグザンダーの「自己放下」、アドラーの「脱自己中心化」、見田さん(プーレ)の「コンサマトリーな時の充実」、ルソーの「至福の状態」等々は同じ現象を異なる側面で表現しているようにみえる。

そして同じ現象だからこそ、近代システムの中で相容れないという点が共通している。問題は、どのように「相いれさせていくか」という現実的なコード探求へと発展していく。単に「知によって良いものが知られ、悪いものが知られる」だけでは「生の変革」は難しい。

美を知れば知るほど不幸になる可能性、ダブルバインド

むしろ、知ったからこそ精神が矛盾によってより不健全になることもある。アレグザンダーが良い建築と悪い建築を語るだけではなく、実際に創ったように、我々が日々の生活においてたとえ小さくとも「実践」することが重要になる。そうした輪が周りに広がっていけば良い。

さらに小さな実践を可能にするような磁場、社会的条件も小さく変えていければなおよい。こうした具体的な生の改革の実践のコツがランゲージとしてまとめられれば、なおよいのだろう。それゆえにパターンランゲージは可能性をもっている。

たしかに良いものは良い。健全なものはいい。それはわかる。「しかし・・でも」となるのである。これはアドラーのような他者への無条件の信頼の難しさ、共同体感覚を突き進むことの難しさと似ている。もちろん、カントの定言命法やニーチェの永遠回帰とも重なっていく。

ルターが「自由意志などいらない」と述べたような悲痛ともつながっていく。これを別の観点で引き伸ばしていけば、「近代的社会条件の中で脱自己中心を日常的に維持していくのは苦痛にまみれている可能性がある」という視点をもつことができる。

アドラーならば「勇気」をもてというかもしれない。もちろん、個人の認識の変化という視点で勇気も重要になるが、同じくらい、その両輪として社会的条件の変化も重要になると私は考えている。

あまりにもその両輪が偏って歪なバランスをしている場合、それはもはや勇気ではなく「無謀」だろう。だからこそアドラーも現実的に、社会的条件を「教育」という形から変えようとしていたのである。しかし、教育単体のコンテクストを孤立的に変えることは現実的だろうか。政治、経済などあらゆるものが教育のコンテクストに関わっている。であるとすれば、それらを納得させるような根拠を出せるコードが必要になる。結局は「エビデンス(客観的な事実)」が求められることになる。すくなくとも、この機械論的世界は事実を示しつつ、かつ価値とも矛盾しない調和的な試みが必要である。

現実と理想の不調和はアレグザンダーのいう「コンフリクト」、あるいはベイトソンのいう「ダブルバインド」へとつながっていく話でもある。

たとえば母親が子どもに「あなたを愛しているわ」と言う。そして同時に、憎んでいるような矛盾しているような行動を取り続ける。子どもはその矛盾を指摘することが許されない。そんな状況がダブルバインド的状態である。上司が「頑張れ」と言いながら、頑張ったら冷たい態度をとるような会社でも精神がおかしくなるのかもしれない。

ベイトソンが紹介していた「犬を精神疾患に陥らせる実験」を思い出す。

丸か楕円を用意して、どちらかを識別させる実験である。当たったらエサをあげたり、はずしたら罰を与えるかしていく(道具的なコンテクストに犬を置く)。そしてどんどん難しくしていく。やがて犬は狂っていくという。

「これは識別のコンテストだよ」というメッセージが実験室には溢れている。たとえば首輪だったり、実験室の匂いだったりする。

しかし、識別がほとんど不可能なのである。愛していると言われながら憎まれている行動をされているように、犬は矛盾にさらされつづける。やがてコンテクストを知らせるマーカーを見ただけで、精神が狂ってくるようになるという。

「こっちのほうが生き生きとしている」と明らかに心では気づいている。しかし、そうしたものを選ぶと社会では批判され、孤立に追いやられるとする。「そんなことをやるなんて頭がおかしい、非常識な人間だ、社会不適合者だ」と言われてしまうのである。

我々がアレグザンダーのいう「美」に気づけば気づくほど、逆に「頭がおかしくなる」ということもありえなくはない。たとえば自分が裸だということを知らなければ、裸の王様はもっと健全な心でいられたかもしれない。しかし、裸だと知ってしまった瞬間、自分がこんなところに居ることを嫌悪することになる。しかし生きるためには居ざるを得ない。「正しさがいつも適切とは限らない」というアドラーの文脈を思い出す話である。

個人の認識の改革と社会的な条件の改革という両輪

「個人の認識論的な改革」だけではなく、「社会的な条件の改革」もセットで重要なのである。社会的条件と適合する方法を模索するようなコードが必要とされているし、またアレグザンダーや見田さん、バーマン、ベイトソンなどはそうした方向でも進んでいる。

たしかに彼らには宗教じみた「信仰」の要素もあるが、しかし「科学」に寄り添う形、あるいは翻訳する形で説明しようとしている点が共通している。また、実際に「美しい建物」が町に多く建てられるだけでも、社会的条件の「何か」が変わるのかもしれない。まずは自分にできることをコツコツとやる、そうした姿勢をアドラーでは学んだ。あまりにも大きく、一気に考えすぎると、なにも変えられなくなってしまう。

たとえばスティーブン・グラボーは「彼の著作のほとんどが、ラスキンの構想した中世への回帰を連想させるのに反し、アレグザンダーの活動は、著作から受ける印象よりも、ポスト工業化社会に歩調を合わせようとつとめている。」と述べている。

もし生産的かつ、生き生きとした「建築」の両立が可能な道があれば、矛盾は生じにくくなる。例えばアレグザンダーは「吹付け超軽量コンクリートと構造工学の実験」などを行っているという。

アレグザンダーの話を聞くと、美学的な視点を政治に取り入れようとしたエドマンド・バークを私は思い出す。論理学を美学で基礎づけようとしたパースにも通じるところがある。あるいは哲学によって科学を基礎づけようとしたフッサールも同時に思い出す。

新しい形で、精神的自己や価値が含まれる形で科学を再編する必要があるのだろう。

美学の視点を政治や経済、そしてそれらが依拠する「科学」に取り入れる試みが、単なる解体ではなく、「歩調を合わせる形で」必要とされているのである。

そうした個々の取り組みをさらに大きな視点で総合していく視点も必要になる。

特に参考にしたページ

キーワード:ポスト工業社会、歩調

スティーブン・グラボー『クリストファー・アレグザンダー』,301p

世界に参加する意識

最後に、私が印象に残ったコードを紹介して終わる。

「15の幾何学的特性」や、「自己に似ているもの」のどちらも、「私(精神的な自己)とは無関係に存在しているものではない」というコードである。「自己と関連させる、協働させる一体となることで意味をもつというコード」とも言い換えられる。

仮に、もし全世界の精神的な自己が消え失せ、機械的なAIのようなものへと変わったとする。その機械は「全体性」を把握できるのだろうか。たとえば私の脳の構造を単なるプログラムとしてコピーして、代わりに把握させるというような試みは可能か。

アレグザンダーは我々の「人間的体験」や「参加的な意識の関わり方」を重視している。これはバーマンの言う「世界に参加する意識」と通底するものである。

デカルト的世界観はそうした「精神的な自己」を締め出したが、全体論的世界観ではそれらを必要不可欠な部分として認めているのである。

精神ともの、主体と客体、価値と事実が一体となることで「客観的な価値基準にあてはまるもの」を見つけ出すことができる。

人間的な認識、体験を経て事実として発見された「15の幾何学的特徴」をパターン化し、それをAIのようなロボットが使えばもはや人間的体験や精神的自己などいらないのではないかという一種の「疎外」の不安も同時にある。

だからこそアレグザンダーは「純粋な形態の問題」よりも「名付けえぬ質」のほうが地についていて、より大事だと表現したのである。「純粋な形態の問題」はより大事なものを我々に理解させるための一端にすぎず、それですべて解決できるというような薬でも、終着点でもない。ひとつの側面であり、より一体的な把握のためには人間の「参加」が不可欠であり、共同が不可欠であるといえる。いわばピースのひとつ、きっかけにすぎない。

他の側面も「純粋な形態の問題」のようになにか翻訳される可能性があるのではないか、という不安もある。色も踊りも、恋愛も政治もすべてが「目に見える形」として飲み込まれてしまうのではないかと。

「走っているとき、海で大波を追っているとき、ボートをこいでいるとき、馬に乗っているとき。あるいは踊ったり、歌ったりしているときや、一杯の水を飲み干したとき、オムレツを食べたり深呼吸した一瞬」さえもが「幾何学的特性」とは異なった形で「事実」として語られてしまうのではないか。

「そんなことはできない」とも言い切れないし、「そんなことができてしまったら」という不安もある。

前者の場合は「宗教的な方向」へ行くことになるだろうし、後者の場合は「科学的な方向」へ行くことになるのだろう。

もちろん、アレグザンダーは両者の統合を目指している。後者の方向へたとえいったとしても、全体性を事実的な形といえども我々が体感する過程で、「不健全で過剰な自己執着」はなくなっていくのかもしれない。

だとすれば、もはや「単なる事実」へ収束していく恐れはないのかもしれない。「事実以外の大事ななにか」が体得され、感じられていくと期待できるのかもしれない。

追記(2024/06/17):フッサールがまずは独我論から方法的に出発したように、アレグザンダーもまた、美は幾何学的に表現しきれるものだという前提を置いたのかもしれない。その過程で、「純粋な幾何学的特徴以上のもの」が経験され、体感され、何かが獲得されてくる。そして我々の認識と、認識対象とが共同して一体となる限りでそれは表れてくる。我々とは無関係に認識対象がそれ単体で美をもっているという視点は徐々に溶け出していき、より主客が浸透していく。もはや客体それ自体があるかなど無関心になる次元である。そうした瞬間や継起を見返したあとには、「解脱」や「自己放下」というラベルが貼られるのかもしれない。しかし本当に浸透していれば、ある瞬間が客体化される必要もなく、自分が自己放下していると客観的に見つめる必要すらなくなるのかもしれない。ベイトソンでいえば学習3や、さらに人類未踏の学習4にもあたるのかもしれない。

参考文献リスト

今回の主な文献

クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』

クリストファー・アレグザンダー『ザ・ネイチャー・オブ・オーダー 建築の美学と世界の本質 生命の現象』

クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』

クリストファー・アレグザンダー『パタン・ランゲージ―環境設計の手引』

坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』

坂一郎『クリストファー・アレグザンダーの軌跡:デザイン行為の意味を問う』

スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』

スティーブン・グラボー『クリストファ-・アレグザンダ-: 建築の新しいパラダイムを求めて』

汎用文献

米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

米盛裕二「アブダクション―仮説と発見の論理」

トーマス・クーン「科学革命の構造」

トーマス・クーン「科学革命の構造」

真木悠介「時間の比較社会学」

真木悠介「時間の比較社会学」

モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

モリス・バーマン「デカルトからベイトソンへ ――世界の再魔術化」

グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

グレゴリー・ベイトソン「精神と自然: 生きた世界の認識論」

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

グレゴリー・ベイトソン「精神の生態学へ (上) (岩波文庫 青N604-2)」

マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

マックス・ウェーバー「社会科学と社会政策にかかわる認識の「客観性」」

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